詩『あどけない話』(高村光太郎)について(2) [詩]
あどけない話 『智恵子抄』より
智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。
青空文庫より
以前、高村光太郎の詩「あどけない話」の2つ目の「ほんとの空」が「ほんとうの空」になっているテキストがあるということを書いた。
その後、ブログにコメントをくれた方がいて「単なる間違い」と断定していた。もしかするとすでに何度か取り沙汰されて決着がついた事件なのかもしれない。そう考えるとちょっと恥ずかしい。
でも、もう少し説明をしてほしかったなあ。誰がどこで間違えたのだろうか。
どちらの詩句も「ほんとうの空」となっていたなら「単なる間違い」も納得できる。しかし、2つ目だけが「ほんとうの空」なのが面白い。
現にそういうテキストが複数あるということは、よほど権威のある人、または出版物が間違えたのだろうか?
不謹慎だとは思うが、こういう謎は答えが分からない方が断然面白い。
余談だが、私は子供の頃から百人一首のカルタが好きでよく遊んでいた。
母親もカルタが好きで、子供のころ東京の実家の近所にいた陸軍少将だか海軍少将だかの家に呼ばれて行ってカルタをしたのが自慢だった。
母の得意札は藤原定家の「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ」。母は読み手のときに「まつほ(松帆)」を「まっぽ」と読んだ。
母のカルタ好きは祖母の影響らしい。母方の祖母は秋田の横手高等女学校在学中に寮生活をしていて、当時、教員していた石坂洋次郎とカルタで遊んだのが自慢だった。『青い山脈』や『若い人』に出てくる女学生のモデルは自分だと言い張っていた。
祖母の得意札は「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月宿るらむ」。清少納言の父親清原元輔の祖父、清原深養父の歌だ。
祖母はこの歌の「いづこに」を「どんこに」と読んだ。子供のころ、そういう読み方がとても面白くて興味を持った。母の「まっぽ」、祖母の「どんこに」、どちらの読みにも彼女たちの匂いがした。
母も祖母も絶対に得意札は取らせない。人に取られるとすこぶる不機嫌になる。それがかえって面白くてわざと母や祖母の得意札を狙ったりした。
私が最初に覚えた歌は「きりぎりす」とか「ほととぎす」などの動物が初句にあるものだった。「百敷や」も「ももひき」と似ているのですぐに覚えた。百番目の順徳院の歌である。
得意札は「花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」。有名な小野小町の歌。あまりに有名なのでなかなか取れない。中学生になると友達とカルタを競う機会も増えたが、上手な子はきまってもっと特徴のない句を得意札にしていた。
密かに好ましく思っていた女子は「かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを」(藤原実方朝臣)が好きだった。頭のよい子だったけど、こんな激しい恋心を秘めているのかとドキドキしたのを覚えている。気を引こうとしていつもこの札を狙っていたが、なかなか取れなかった。カルタも強い子だった。
私は静岡の清水で育った。だから「田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」という山部赤人の歌は早くに覚えた。清水の子にとって富士山は日常である。風景の中になくてはならない存在だった。この歌を覚えない子はいなかった。
しかし、国語の授業で『万葉集』を勉強すると、原歌を知ることになる。
「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」
あれれ?である。子供の頃から親しんだ百人一首の歌と違うことに混乱した。
これは百人一首を選んだといわれる藤原定家の間違いなのか? それとも万葉古歌をその時代に合わせてアレンジしたのか?
大学で『万葉集演習』を受講した。『万葉集』の歌を万葉仮名一つひとつにこだわって読んで発表するという演習形式の授業だった。図書館で様々な資料を読みレポートにまとめる。考察が十分でないと容赦ない叱責が飛ぶ。その授業を通して万葉仮名がいかに読めないかを思い知る。
『万葉集』と藤原定家の時代は四百年以上の隔たりがある。平安末期であっても『万葉集』は謎の多い歌集だったと思う。
田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不尽能高嶺尓 雪波零家留
この歌は富士を讃える長歌に添えられた反歌である。
これを見ると「田兒之浦従:たごのうらゆ」「真白衣:ましろにぞ」「家留:ける」を、百人一首の歌のように読むのは無理がある。定家でなくてもそんな基本的な間違いはしないはずだ。
とするとやはり定家の意図的なアレンジなのか?
母は「松帆」を「まっぽ」と読み、祖母は「いづこ」を「どんこ」と読み換えた。それは歌に対する愛情ゆえだと思う。好きな作品は自分のものにしたくなるものだ。
藤原定家もそうなのか?
百人一首は出家した御家人宇都宮蓮生に依頼されたものだという。定家が作った百人一首の色紙は小倉山に建造された蓮生の別荘の襖を飾った。
そういう個人的な鑑賞物だったからこそ、定家は万葉古歌を自分流にアレンジすることもできたし、幕府にはばかって『新古今和歌集』から外された後鳥羽院とその子順徳院の歌も入れることができたのだろう。
さて、「あどけない話」の「ほんとうの」は単なる写し間違いなのか、それとも誰か熱烈なファンのアレンジなのか?
詩人の清岡卓行は、教科書にも掲載されている有名な評論『手の変幻』の中で、ミロのビーナスが両手を失ったのは「芸術作品の運命」だとしている。ミロのビーナスはその運命によってたまたま両腕を失うことで、平凡な彫刻から国境や時代を超えて愛される芸術作品へと飛躍した。それがこの評論の主旨だと思う。
芸術作品は一度作者の手を離れてしまえば、土の中に埋められて両手を失うこともあれば、持ち主の思いつきによって何かを描き加えられることもある。音楽ならば勝手にアレンジされることも拒否することはできない。
解釈もまた然り。自分の小説や脚本がどう解釈されるかは読む人次第である。小説は原作に堕し、脚本は演出家と役者、そして観客のものになる。
詩はどうだろう?
しかし、詩は言葉が命だ。やはりどんなに好きでも勝手にアレンジするのはやめてもらいたい、と作者は思うだろうな。
やはり、「ほんとの空だといふ。」が光太郎が書いた「ほんとの」詩句なのだろうな。
相変わらずまとまらない文章ご勘弁。
智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。
青空文庫より
以前、高村光太郎の詩「あどけない話」の2つ目の「ほんとの空」が「ほんとうの空」になっているテキストがあるということを書いた。
その後、ブログにコメントをくれた方がいて「単なる間違い」と断定していた。もしかするとすでに何度か取り沙汰されて決着がついた事件なのかもしれない。そう考えるとちょっと恥ずかしい。
でも、もう少し説明をしてほしかったなあ。誰がどこで間違えたのだろうか。
どちらの詩句も「ほんとうの空」となっていたなら「単なる間違い」も納得できる。しかし、2つ目だけが「ほんとうの空」なのが面白い。
現にそういうテキストが複数あるということは、よほど権威のある人、または出版物が間違えたのだろうか?
不謹慎だとは思うが、こういう謎は答えが分からない方が断然面白い。
余談だが、私は子供の頃から百人一首のカルタが好きでよく遊んでいた。
母親もカルタが好きで、子供のころ東京の実家の近所にいた陸軍少将だか海軍少将だかの家に呼ばれて行ってカルタをしたのが自慢だった。
母の得意札は藤原定家の「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ」。母は読み手のときに「まつほ(松帆)」を「まっぽ」と読んだ。
母のカルタ好きは祖母の影響らしい。母方の祖母は秋田の横手高等女学校在学中に寮生活をしていて、当時、教員していた石坂洋次郎とカルタで遊んだのが自慢だった。『青い山脈』や『若い人』に出てくる女学生のモデルは自分だと言い張っていた。
祖母の得意札は「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月宿るらむ」。清少納言の父親清原元輔の祖父、清原深養父の歌だ。
祖母はこの歌の「いづこに」を「どんこに」と読んだ。子供のころ、そういう読み方がとても面白くて興味を持った。母の「まっぽ」、祖母の「どんこに」、どちらの読みにも彼女たちの匂いがした。
母も祖母も絶対に得意札は取らせない。人に取られるとすこぶる不機嫌になる。それがかえって面白くてわざと母や祖母の得意札を狙ったりした。
私が最初に覚えた歌は「きりぎりす」とか「ほととぎす」などの動物が初句にあるものだった。「百敷や」も「ももひき」と似ているのですぐに覚えた。百番目の順徳院の歌である。
得意札は「花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」。有名な小野小町の歌。あまりに有名なのでなかなか取れない。中学生になると友達とカルタを競う機会も増えたが、上手な子はきまってもっと特徴のない句を得意札にしていた。
密かに好ましく思っていた女子は「かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを」(藤原実方朝臣)が好きだった。頭のよい子だったけど、こんな激しい恋心を秘めているのかとドキドキしたのを覚えている。気を引こうとしていつもこの札を狙っていたが、なかなか取れなかった。カルタも強い子だった。
私は静岡の清水で育った。だから「田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」という山部赤人の歌は早くに覚えた。清水の子にとって富士山は日常である。風景の中になくてはならない存在だった。この歌を覚えない子はいなかった。
しかし、国語の授業で『万葉集』を勉強すると、原歌を知ることになる。
「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」
あれれ?である。子供の頃から親しんだ百人一首の歌と違うことに混乱した。
これは百人一首を選んだといわれる藤原定家の間違いなのか? それとも万葉古歌をその時代に合わせてアレンジしたのか?
大学で『万葉集演習』を受講した。『万葉集』の歌を万葉仮名一つひとつにこだわって読んで発表するという演習形式の授業だった。図書館で様々な資料を読みレポートにまとめる。考察が十分でないと容赦ない叱責が飛ぶ。その授業を通して万葉仮名がいかに読めないかを思い知る。
『万葉集』と藤原定家の時代は四百年以上の隔たりがある。平安末期であっても『万葉集』は謎の多い歌集だったと思う。
田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不尽能高嶺尓 雪波零家留
この歌は富士を讃える長歌に添えられた反歌である。
これを見ると「田兒之浦従:たごのうらゆ」「真白衣:ましろにぞ」「家留:ける」を、百人一首の歌のように読むのは無理がある。定家でなくてもそんな基本的な間違いはしないはずだ。
とするとやはり定家の意図的なアレンジなのか?
母は「松帆」を「まっぽ」と読み、祖母は「いづこ」を「どんこ」と読み換えた。それは歌に対する愛情ゆえだと思う。好きな作品は自分のものにしたくなるものだ。
藤原定家もそうなのか?
百人一首は出家した御家人宇都宮蓮生に依頼されたものだという。定家が作った百人一首の色紙は小倉山に建造された蓮生の別荘の襖を飾った。
そういう個人的な鑑賞物だったからこそ、定家は万葉古歌を自分流にアレンジすることもできたし、幕府にはばかって『新古今和歌集』から外された後鳥羽院とその子順徳院の歌も入れることができたのだろう。
さて、「あどけない話」の「ほんとうの」は単なる写し間違いなのか、それとも誰か熱烈なファンのアレンジなのか?
詩人の清岡卓行は、教科書にも掲載されている有名な評論『手の変幻』の中で、ミロのビーナスが両手を失ったのは「芸術作品の運命」だとしている。ミロのビーナスはその運命によってたまたま両腕を失うことで、平凡な彫刻から国境や時代を超えて愛される芸術作品へと飛躍した。それがこの評論の主旨だと思う。
芸術作品は一度作者の手を離れてしまえば、土の中に埋められて両手を失うこともあれば、持ち主の思いつきによって何かを描き加えられることもある。音楽ならば勝手にアレンジされることも拒否することはできない。
解釈もまた然り。自分の小説や脚本がどう解釈されるかは読む人次第である。小説は原作に堕し、脚本は演出家と役者、そして観客のものになる。
詩はどうだろう?
しかし、詩は言葉が命だ。やはりどんなに好きでも勝手にアレンジするのはやめてもらいたい、と作者は思うだろうな。
やはり、「ほんとの空だといふ。」が光太郎が書いた「ほんとの」詩句なのだろうな。
相変わらずまとまらない文章ご勘弁。
詩『あどけない話』(高村光太郎)について [詩]
『智恵子抄』に掲載されている『あどけない話』は高村光太郎の詩のなかでも最も有名なものの一つだろう。
私は中学生の時に『智恵子抄』に出会い、この詩をはじめ『レモン哀歌』『樹下の二人』などを暗記した。ほかの詩はうろ覚えになってしまったけれど、今でも『あどけない話』だけは何とか暗誦できる。
余談だが、『ムー一族』というテレビドラマがあった。
郷ひろみが演じた浪人生宇崎拓郎が足袋職人の野口五郎(左とん平)と話していて、教養があるとかないとかの話になった。馬鹿にされた野口は教養はないが詩の一つくらいは覚えていると言って島崎藤村の『初恋』を「まだあげそめし前髪のりんごの下に見えしとき……」と暗誦してみせた。皆が感心するなか拓郎が「それなら俺もできる」と言ってジャン・コクトーの『耳』を暗誦したが、「私の耳は貝の殻/海の響をなつかしむ」(堀口大学訳)とあまりの短さに周囲の人々が呆れるというオチだった。
テレビドラマでそんな風に詩が取り上げられるのは珍しい。多くの人にとって記憶に残るシーンになったようだ。もしかすると演出の久世光彦さんあたりのアイデアだったかもしれない。
マリリン・モンロー主演の『バス・ストップ』という映画がある。この映画のなかに長距離バスの休憩所でモンロー扮する金髪美女に恋したカウボーイが、ここぞとばかり教養があるところを見せようと詩を披露する場面があった。
教養とは詩を暗誦できること。そんな時代があったのだ。
私が暗誦できる詩などほんのわずかだが、人生の様々な場面でふとそれらの詩がよみがえる。中学生ではよくわからなかった恋愛や夫婦のことがあるとき腑に落ちる。最愛の妻を亡くした光太郎の思いがリアルに迫ってくる。詩の言葉が自分の人生に寄り添ってくれる。
一つの詩を暗誦できることは一人の友人を持つのと同じだと思う。
一つの詩もそして一人の友人も人生を豊かにする。
ちょっと言い過ぎかな(笑)
閑話休題
最近、Twitterで『あどけない話』が紹介されていた。若い人のなかには高村光太郎という詩人の名も知らない人が多いだろう。思わずコメントを書いた。
かつてはテレビドラマにもなって『東京の空灰色の空、ほんとの空が見たいと言う……』という主題歌も有名だった。
これも余談だが、先日九十九里にある智恵子と光太郎の碑を見てきた。道路ができたせいで石碑のある場所からは海も見ることができない。精神を病んで千鳥と遊ぶ智恵子を松林から光太郎が悲しく眺めていたことを知る人も少ないだろう。国民宿舎「サンライズ九十九里」の裏手にあるのでぜひ多くの人に訪ねてほしい。
ところで、この詩には「ほんとの空が見たいといふ」(2行目)「智恵子のほんとの空だといふ」(最後から2行目)と「ほんとの」という語が2回使われている。
先のTwitterの引用にもそうあったので青空文庫も確認したが同じだった。
実はこのことにはずいぶん前にも気づいていた。何かで見たテキストが私の記憶と異なっていたのである。私の記憶では二度目の「ほんとの」は「ほんとうの」だった。
そのときに文庫の「高村光太郎詩集」を見て確認したはずだが、残念ながらその時以来詩集は行方不明。物をなくすのが私の悪いくせ。
ネットを検索して調べるとわずかだが「ほんとうの」としているものがある。
私としては、前者の「ほんとの」は智恵子の肉声に近い表現、後者の「ほんとうの」は光太郎が智恵子の言葉を言い直した表現だと解釈していた。
単にくりかえしを嫌ったというのではなく、「ほんとうの」と言い換えることですでに遠くに去った智恵子との距離感、一人取り残された詩人の思いがより鮮明に見えてくると思う。
まあ、これは私の独りよがりの解釈なので、どなたか「ほんとうの」ところをご存じの方は御教授いただきたい。
私は中学生の時に『智恵子抄』に出会い、この詩をはじめ『レモン哀歌』『樹下の二人』などを暗記した。ほかの詩はうろ覚えになってしまったけれど、今でも『あどけない話』だけは何とか暗誦できる。
余談だが、『ムー一族』というテレビドラマがあった。
郷ひろみが演じた浪人生宇崎拓郎が足袋職人の野口五郎(左とん平)と話していて、教養があるとかないとかの話になった。馬鹿にされた野口は教養はないが詩の一つくらいは覚えていると言って島崎藤村の『初恋』を「まだあげそめし前髪のりんごの下に見えしとき……」と暗誦してみせた。皆が感心するなか拓郎が「それなら俺もできる」と言ってジャン・コクトーの『耳』を暗誦したが、「私の耳は貝の殻/海の響をなつかしむ」(堀口大学訳)とあまりの短さに周囲の人々が呆れるというオチだった。
テレビドラマでそんな風に詩が取り上げられるのは珍しい。多くの人にとって記憶に残るシーンになったようだ。もしかすると演出の久世光彦さんあたりのアイデアだったかもしれない。
マリリン・モンロー主演の『バス・ストップ』という映画がある。この映画のなかに長距離バスの休憩所でモンロー扮する金髪美女に恋したカウボーイが、ここぞとばかり教養があるところを見せようと詩を披露する場面があった。
教養とは詩を暗誦できること。そんな時代があったのだ。
私が暗誦できる詩などほんのわずかだが、人生の様々な場面でふとそれらの詩がよみがえる。中学生ではよくわからなかった恋愛や夫婦のことがあるとき腑に落ちる。最愛の妻を亡くした光太郎の思いがリアルに迫ってくる。詩の言葉が自分の人生に寄り添ってくれる。
一つの詩を暗誦できることは一人の友人を持つのと同じだと思う。
一つの詩もそして一人の友人も人生を豊かにする。
ちょっと言い過ぎかな(笑)
閑話休題
最近、Twitterで『あどけない話』が紹介されていた。若い人のなかには高村光太郎という詩人の名も知らない人が多いだろう。思わずコメントを書いた。
かつてはテレビドラマにもなって『東京の空灰色の空、ほんとの空が見たいと言う……』という主題歌も有名だった。
これも余談だが、先日九十九里にある智恵子と光太郎の碑を見てきた。道路ができたせいで石碑のある場所からは海も見ることができない。精神を病んで千鳥と遊ぶ智恵子を松林から光太郎が悲しく眺めていたことを知る人も少ないだろう。国民宿舎「サンライズ九十九里」の裏手にあるのでぜひ多くの人に訪ねてほしい。
ところで、この詩には「ほんとの空が見たいといふ」(2行目)「智恵子のほんとの空だといふ」(最後から2行目)と「ほんとの」という語が2回使われている。
先のTwitterの引用にもそうあったので青空文庫も確認したが同じだった。
実はこのことにはずいぶん前にも気づいていた。何かで見たテキストが私の記憶と異なっていたのである。私の記憶では二度目の「ほんとの」は「ほんとうの」だった。
そのときに文庫の「高村光太郎詩集」を見て確認したはずだが、残念ながらその時以来詩集は行方不明。物をなくすのが私の悪いくせ。
ネットを検索して調べるとわずかだが「ほんとうの」としているものがある。
私としては、前者の「ほんとの」は智恵子の肉声に近い表現、後者の「ほんとうの」は光太郎が智恵子の言葉を言い直した表現だと解釈していた。
単にくりかえしを嫌ったというのではなく、「ほんとうの」と言い換えることですでに遠くに去った智恵子との距離感、一人取り残された詩人の思いがより鮮明に見えてくると思う。
まあ、これは私の独りよがりの解釈なので、どなたか「ほんとうの」ところをご存じの方は御教授いただきたい。
ココア共和国(紙版)1月号に『恋うた』掲載されます [詩]
ココア共和国(紙版)1月号(12月28日発売)に拙作『恋うた』が掲載されます。
しかも、今回初めて選者のお一人秋吉久美子先生に「こりゃいいね!」をいただきました!
やったあ!! ありがとうございました。嬉しい!
何と言っても私たち世代の人間にとって秋吉さんは時代を先頭で突っ走る女優さんでしたからね。高校生の頃、男子はみんな秋吉さんに夢中でした。
今年は詩誌『ココア共和国』のおかけで、誰の目にも触れなかった拙作が多くの人に読んでいただく機会をいただきました。また、たくさんの素晴らしい詩人たちの詩に触れることもできました。これからも無数の才能がこの共和国へと集まってくることでしょう。いつまで選んでいただけるかはわかりませんが、来年も覚悟をもって詩を書き続けたいと思っています。
子どもの頃からココアが大好きです マグカップにたっぷりのココアと砂糖を入れ ほんの少しのミルクを注いでスプーンで気がすむまで練っている と詩が香ってきます そんなカップ一杯のココアで救われる一日もあります
紙版は仙台周辺の書店の店頭で発売しているそうです。それ以外の地域の方は『ココア共和国』ホームページ、またはネット上の各書店にて購入できます。1月号の発売は28日です。
↓ こちらから1月号(紙版)を購入できます。
紙版は傑作集のみ、電子版では傑作集から佳作集までの詩をお読みいただけます。
しかも、今回初めて選者のお一人秋吉久美子先生に「こりゃいいね!」をいただきました!
やったあ!! ありがとうございました。嬉しい!
何と言っても私たち世代の人間にとって秋吉さんは時代を先頭で突っ走る女優さんでしたからね。高校生の頃、男子はみんな秋吉さんに夢中でした。
今年は詩誌『ココア共和国』のおかけで、誰の目にも触れなかった拙作が多くの人に読んでいただく機会をいただきました。また、たくさんの素晴らしい詩人たちの詩に触れることもできました。これからも無数の才能がこの共和国へと集まってくることでしょう。いつまで選んでいただけるかはわかりませんが、来年も覚悟をもって詩を書き続けたいと思っています。
子どもの頃からココアが大好きです マグカップにたっぷりのココアと砂糖を入れ ほんの少しのミルクを注いでスプーンで気がすむまで練っている と詩が香ってきます そんなカップ一杯のココアで救われる一日もあります
紙版は仙台周辺の書店の店頭で発売しているそうです。それ以外の地域の方は『ココア共和国』ホームページ、またはネット上の各書店にて購入できます。1月号の発売は28日です。
↓ こちらから1月号(紙版)を購入できます。
紙版は傑作集のみ、電子版では傑作集から佳作集までの詩をお読みいただけます。
『ココア共和国』に年内最後の投稿をしました [詩]
来年2月号に向けて『ココア共和国』に投稿しました。
先月1月号に向けて投稿したものの続編のような詩です。
最近の心境を詩にすると、
居場所は知られています こころの淵にことばは眠っています 夢のなかでときには現にも 水中にうごめく人食い魚に指先をかまれながら 沼の底にたまった日常の泥をかきわけて やっと手がとどいた と思ったとたんに夢からさめる スマホ画面の狭さを知る 手をひらいてみた ああ ああ つかめるのは昨日ばかり ああ ああ 今日ですらない ああ ああ あしたのことばのいばしょはしられているのに
『ココア共和国』の内外で詩人たちは本当の言葉を見つけようともがいています。年齢も性別も人種も境遇も関係なく、運命の言葉に出会うことを切に願って今と格闘しています。
この日々のもがきを多くの人に目撃してもらいたいものです。
↓ 『ココア共和国』のサイトです。詩の投稿は「投稿フォーム」から。詩誌の購入もできます。
https://www.youyour.me/
先月1月号に向けて投稿したものの続編のような詩です。
最近の心境を詩にすると、
居場所は知られています こころの淵にことばは眠っています 夢のなかでときには現にも 水中にうごめく人食い魚に指先をかまれながら 沼の底にたまった日常の泥をかきわけて やっと手がとどいた と思ったとたんに夢からさめる スマホ画面の狭さを知る 手をひらいてみた ああ ああ つかめるのは昨日ばかり ああ ああ 今日ですらない ああ ああ あしたのことばのいばしょはしられているのに
『ココア共和国』の内外で詩人たちは本当の言葉を見つけようともがいています。年齢も性別も人種も境遇も関係なく、運命の言葉に出会うことを切に願って今と格闘しています。
この日々のもがきを多くの人に目撃してもらいたいものです。
↓ 『ココア共和国』のサイトです。詩の投稿は「投稿フォーム」から。詩誌の購入もできます。
https://www.youyour.me/
ココア共和国(電子版)に『おらの戦争』掲載 [詩]
詩誌「ココア共和国」の電子版(佳作集)12月号に拙作『おらの戦争』を掲載していただきました。ありがたいことです。
璞さんの『思春奇譚』の第5連
どこかにさくらんぼの種が落ちていたら
それは私が殺した処女の残り香です
誰にも、私にすらも
その姿は決して見せません
↓ 『ココア共和国』12月号(紙版 傑作集のみ)
↓『ココア共和国』Kindle版(電子版 含む佳作集)
12月号の傑作集(紙版・電子版に掲載)には31篇、佳作集(電子版)には126篇もの投稿詩が掲載されています。
毎月投稿の数も増えていて、10歳から80歳までの方が投稿なさっているそうです。
B6版の紙版『ココア共和国』は私のお気に入り。装丁も可愛いし、何よりとても丁寧に作られていて、編集の皆さんの詩への愛情が伝わってきます。
女優の秋吉久美子さん、漫画家のいがらしみきおさん、劇作家のクマガイコウキさんなどが「絶賛」「いいね」などの評を付けてくれるも楽しい。評はもちろん佳作集にも及んでいます。つまり、すべての投稿詩に目を通してくださっているということですね。ありがたいことです。
今まで詩に全く興味のなかった人でも心の奥に届く美しい言葉に出遭えるはずですよ、きっと。私も毎号ステキな言葉との出遭いがあります。
12月号で私の心に刺さった言葉を紹介します。
璞さんの『思春奇譚』の第5連
どこかにさくらんぼの種が落ちていたら
それは私が殺した処女の残り香です
誰にも、私にすらも
その姿は決して見せません
↓ 『ココア共和国』12月号(紙版 傑作集のみ)
↓『ココア共和国』Kindle版(電子版 含む佳作集)
今月も詩誌『ココア共和国』に投稿しました。 [詩]
今月も『ココア共和国』に詩を投稿しました。
投稿をはじめてから5ヶ月目です。
私は芝居の台本も小説も書きますが、台本の場合は所属する劇団などの上演を前提に書きます。小説も特に最近は特定の文学賞に応募するために書くことがほとんどです。
しかし、詩に関しては投稿目的ではなく自然に湧いて出たものを投稿しています。ただ、身体に起こる多くの現象がインプットの結果としてアウトプットが起こることもあれば、逆にアウトプットをすることでインプットが促されることがあるように、投稿という行為が詩を生むことのモチベーションになっていることはあります。
毎月の投稿によって詩作が促される。これは多くのアマチュア詩人に起こっている現象ではないでしょうか。
現実はヤスリのように私たちを傷つけます。シルクのような優しい現実でさえ人によっては激しい痛みを感じてしまうことがある。感受性というやわい皮膚から生まれる叫びを人は詩として吐き出すのだと思っています。叫びは誰も寄せ付けない怒りであることもあれば、誰もが思わず声をかけたくなるような切ない響きを持つこともあります。しかし、それをただ吠えるのでは獣と同じ。詩人は言葉を持っています。感情を丁寧に折りたたんで、生臭い匂いを消してから箱に入れて、個性のラッピングをする。
詩の時代だと思います。SNSに吐き捨てられる使い捨ての言葉、虚言やフェイクニュース、そうでなくても気持ちのこもらない浅い言葉が世の中にあふれています。そういう時代だからこそ、誰かが言葉を捧げ持って祈らなければならないのだと思います。
真実を語るときには深い呼吸が必要です。昔の映画を観ると言葉一つを発するときもゆったりとした呼吸をしているのを感じます。挨拶の礼をするにも時間をかけて深々と頭を下げています。今それをやればただの変人に見られるでしょう。言葉も早口で語られたちまちアスファルトで蒸発してしまう。私たちに出来るのは言葉が育つ隙間を見つけて、丁寧に種を蒔くことくらいです。そうやって祈り続ければ言葉は死なないと信じて。
毎月、言葉の種を入れた小箱を送る楽しみ。たくさんの小箱のリボンをほどく楽しみ。それを『ココア共和国』は教えてくれました。
↓ 『ココア共和国』11月号(Kindle版) 紙版を電車のなかで読んでいる人がスキ
投稿をはじめてから5ヶ月目です。
私は芝居の台本も小説も書きますが、台本の場合は所属する劇団などの上演を前提に書きます。小説も特に最近は特定の文学賞に応募するために書くことがほとんどです。
しかし、詩に関しては投稿目的ではなく自然に湧いて出たものを投稿しています。ただ、身体に起こる多くの現象がインプットの結果としてアウトプットが起こることもあれば、逆にアウトプットをすることでインプットが促されることがあるように、投稿という行為が詩を生むことのモチベーションになっていることはあります。
毎月の投稿によって詩作が促される。これは多くのアマチュア詩人に起こっている現象ではないでしょうか。
現実はヤスリのように私たちを傷つけます。シルクのような優しい現実でさえ人によっては激しい痛みを感じてしまうことがある。感受性というやわい皮膚から生まれる叫びを人は詩として吐き出すのだと思っています。叫びは誰も寄せ付けない怒りであることもあれば、誰もが思わず声をかけたくなるような切ない響きを持つこともあります。しかし、それをただ吠えるのでは獣と同じ。詩人は言葉を持っています。感情を丁寧に折りたたんで、生臭い匂いを消してから箱に入れて、個性のラッピングをする。
詩の時代だと思います。SNSに吐き捨てられる使い捨ての言葉、虚言やフェイクニュース、そうでなくても気持ちのこもらない浅い言葉が世の中にあふれています。そういう時代だからこそ、誰かが言葉を捧げ持って祈らなければならないのだと思います。
真実を語るときには深い呼吸が必要です。昔の映画を観ると言葉一つを発するときもゆったりとした呼吸をしているのを感じます。挨拶の礼をするにも時間をかけて深々と頭を下げています。今それをやればただの変人に見られるでしょう。言葉も早口で語られたちまちアスファルトで蒸発してしまう。私たちに出来るのは言葉が育つ隙間を見つけて、丁寧に種を蒔くことくらいです。そうやって祈り続ければ言葉は死なないと信じて。
毎月、言葉の種を入れた小箱を送る楽しみ。たくさんの小箱のリボンをほどく楽しみ。それを『ココア共和国』は教えてくれました。
↓ 『ココア共和国』11月号(Kindle版) 紙版を電車のなかで読んでいる人がスキ
「ココア共和国」10月号に掲載! [詩]
詩誌「ココア共和国」の10月号目次が発表されました。今月も拙作『道化師の歌』を掲載していただけるようです。
10月号の目次はこちらをご覧ください。↓
https://www.youyour.me/cocoa202010
10月号の予約(Amazon)はこちらです。↓
10月号およびバックナンバーはこちら(ココア共和国のショップ)からも購入(予約)できます。↓
https://www.youyour.me/cocoa-shop
発売は9月28日です。
紙本は770円。電子本は275円です。
電子本には佳作集もついていて、よりたくさんの投稿詩に出会うことができますよ。
発売直後はすぐに売り切れてしまうので、ほしい方は早めに予約してください。
『新しい神様』が掲載されている9月号はこちらから購入できます。 ↓
それにしても、まさか連続して選んでいただけるとは思っていなかったので驚いています。どちらも投稿するために書いたものではありません。私が私であるために書いた詩です。私のささやかなメッセージが誰かの胸に届くことを祈ります。掲載ありがとうございました。読んでいただいた皆さんありがとうございました。
以前にも紹介しましたが、この「ココア共和国」にはたくさんの素晴らしい詩と才能が集まっています。命を込めて丁寧に綴られた言葉があります。ネットの中の使い捨ての言葉に疲れたあなたにとって救いとなる一篇に、もしかすると出会えるかもしれません。ぜひ一度読んでみてください。
P.S. 10月号の表紙は可愛いブタさんです。電車の中で見せびらかして読みたい詩誌ですよ。
10月号の目次はこちらをご覧ください。↓
https://www.youyour.me/cocoa202010
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発売は9月28日です。
紙本は770円。電子本は275円です。
電子本には佳作集もついていて、よりたくさんの投稿詩に出会うことができますよ。
発売直後はすぐに売り切れてしまうので、ほしい方は早めに予約してください。
『新しい神様』が掲載されている9月号はこちらから購入できます。 ↓
それにしても、まさか連続して選んでいただけるとは思っていなかったので驚いています。どちらも投稿するために書いたものではありません。私が私であるために書いた詩です。私のささやかなメッセージが誰かの胸に届くことを祈ります。掲載ありがとうございました。読んでいただいた皆さんありがとうございました。
以前にも紹介しましたが、この「ココア共和国」にはたくさんの素晴らしい詩と才能が集まっています。命を込めて丁寧に綴られた言葉があります。ネットの中の使い捨ての言葉に疲れたあなたにとって救いとなる一篇に、もしかすると出会えるかもしれません。ぜひ一度読んでみてください。
P.S. 10月号の表紙は可愛いブタさんです。電車の中で見せびらかして読みたい詩誌ですよ。
推薦『ココア共和国』! [詩]
前に紹介した詩誌『ココア共和国』9月号が手もとに届きました。
7月号から読んでいますが、掲載されている詩の力が毎号増しているのが分かります。拙作『新しい神様』が恥ずかしくなるほど、それぞれの詩に魅了されています。投稿している人の年齢や性別が分からないのことも気に入っています。色々な世代の人が自由に自分の感じたことを言葉に結晶させている。まさに言葉の共和国です。
思うに今を呼吸している人が作る詩には、同じ今を生きている人にしか伝わらない匂いがあります。世阿弥の表現を借りれば、詩もまたこの辛い生の路傍に咲く一輪の花のようなものです。その言葉は私たち旅人を癒やし、励まし、驚かせ面白いがらせてくれる。そしてまた一歩、過酷な人生に踏み出す勇気をもらうのです。
『ココア共和国』という、今を摘み取った言葉の花束をぜひ多くの人に知ってもらいたいものです。
『ココア共和国』には紙印刷版と電子版があります。
紙印刷版はB6のサイズもちょっとバッグに入れておいて、通勤電車の中で楽しむのにいいサイズ。それに表紙の絵が毎回ステキです。発売ととももに即完売になったという話ですけど、また入荷したそうですから今なら手に入りますよ。
電子版は紙面の関係で紙印刷版に載せられなかった傑作がたくさん掲載されています。紙印刷版と比べても遜色ない詩ばかりです。こちらもオススメ。
ずっと憧れていた女優の秋吉久美子さんが選者の一人なのも私にとっては魅力。今回はダメだったけど一度くらいは秋吉さんに「いいね」されたいという野望を抱き、また投稿するつもりです。
↓ 9月号 電子版はこちらから。
7月号から読んでいますが、掲載されている詩の力が毎号増しているのが分かります。拙作『新しい神様』が恥ずかしくなるほど、それぞれの詩に魅了されています。投稿している人の年齢や性別が分からないのことも気に入っています。色々な世代の人が自由に自分の感じたことを言葉に結晶させている。まさに言葉の共和国です。
思うに今を呼吸している人が作る詩には、同じ今を生きている人にしか伝わらない匂いがあります。世阿弥の表現を借りれば、詩もまたこの辛い生の路傍に咲く一輪の花のようなものです。その言葉は私たち旅人を癒やし、励まし、驚かせ面白いがらせてくれる。そしてまた一歩、過酷な人生に踏み出す勇気をもらうのです。
『ココア共和国』という、今を摘み取った言葉の花束をぜひ多くの人に知ってもらいたいものです。
『ココア共和国』には紙印刷版と電子版があります。
紙印刷版はB6のサイズもちょっとバッグに入れておいて、通勤電車の中で楽しむのにいいサイズ。それに表紙の絵が毎回ステキです。発売ととももに即完売になったという話ですけど、また入荷したそうですから今なら手に入りますよ。
電子版は紙面の関係で紙印刷版に載せられなかった傑作がたくさん掲載されています。紙印刷版と比べても遜色ない詩ばかりです。こちらもオススメ。
ずっと憧れていた女優の秋吉久美子さんが選者の一人なのも私にとっては魅力。今回はダメだったけど一度くらいは秋吉さんに「いいね」されたいという野望を抱き、また投稿するつもりです。
↓ 9月号 電子版はこちらから。
「ココア共和国」9月号に掲載! [詩]
「ココア共和国」に詩を投稿 [詩]
従兄に勧められて「ココア共和国」という雑誌に詩の投稿を始めました。
この「ココア共和国」は8月号で5冊目の若い雑誌です。あきは詩書工房という仙台の出版社が発行しています。B6(128×182)というサイズも可愛いし表紙のデザインもオシャレ。電子書籍なら275円、印刷版は700円+税という安さです。
内容のほとんどは読者が投稿した詩なんですが、毎月たくさんの投稿の中から選ばれただけあってレベルが高い。何より驚いたのは詩を書く人がこんなにもいたのかということです。私は中学生の頃から詩を書いていましたが、回りにはほとんど仲間がいませんでした。詩を書いていることが分かると大抵は変人扱いされたものです。
思うに詩というのは書こうと思って書くものではなく、心の深いところがヒリヒリして、言葉にせずにはいられずに出てくるものです。時には自分が何を書いているのかわからないこともある。よく友達や時には先生や親からも「お前の書いてるものは何が何やらさっぱりわからん」と言われました。当然です。自分でもわからなかったのですから。こういう経験をすると人は隠れポエットになるしかない。
詩は難しいです。感受性は機能しても、それを言葉にする能力を持った人はそれほど多くはありません。私のようなダメ詩人はずっとそれで悩んできました。それがこの雑誌の中にはステキな言葉を持ってる人がウヨウヨいるのです。
で、私も投稿してみました。採用されるかドキドキです。隠れポエットのそこのあなたもぜひ一緒に楽しみましょう。