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詩『あどけない話』(高村光太郎)について [詩]

智恵子抄』に掲載されている『あどけない話』は高村光太郎の詩のなかでも最も有名なものの一つだろう。

私は中学生の時に『智恵子抄』に出会い、この詩をはじめ『レモン哀歌』『樹下の二人』などを暗記した。ほかの詩はうろ覚えになってしまったけれど、今でも『あどけない話』だけは何とか暗誦できる。

余談だが、『ムー一族』というテレビドラマがあった。

郷ひろみが演じた浪人生宇崎拓郎が足袋職人の野口五郎(左とん平)と話していて、教養があるとかないとかの話になった。馬鹿にされた野口は教養はないが詩の一つくらいは覚えていると言って島崎藤村の『初恋』を「まだあげそめし前髪のりんごの下に見えしとき……」と暗誦してみせた。皆が感心するなか拓郎が「それなら俺もできる」と言ってジャン・コクトーの『』を暗誦したが、「私の耳は貝の殻/海の響をなつかしむ」(堀口大学訳)とあまりの短さに周囲の人々が呆れるというオチだった。

テレビドラマでそんな風に詩が取り上げられるのは珍しい。多くの人にとって記憶に残るシーンになったようだ。もしかすると演出の久世光彦さんあたりのアイデアだったかもしれない。

マリリン・モンロー主演の『バス・ストップ』という映画がある。この映画のなかに長距離バスの休憩所でモンロー扮する金髪美女に恋したカウボーイが、ここぞとばかり教養があるところを見せようと詩を披露する場面があった。

教養とは詩を暗誦できること。そんな時代があったのだ。

私が暗誦できる詩などほんのわずかだが、人生の様々な場面でふとそれらの詩がよみがえる。中学生ではよくわからなかった恋愛や夫婦のことがあるとき腑に落ちる。最愛の妻を亡くした光太郎の思いがリアルに迫ってくる。詩の言葉が自分の人生に寄り添ってくれる。

一つの詩を暗誦できることは一人の友人を持つのと同じだと思う。
一つの詩もそして一人の友人も人生を豊かにする。

ちょっと言い過ぎかな(笑)

閑話休題

最近、Twitterで『あどけない話』が紹介されていた。若い人のなかには高村光太郎という詩人の名も知らない人が多いだろう。思わずコメントを書いた。

かつてはテレビドラマにもなって『東京の空灰色の空、ほんとの空が見たいと言う……』という主題歌も有名だった。

これも余談だが、先日九十九里にある智恵子と光太郎の碑を見てきた。道路ができたせいで石碑のある場所からは海も見ることができない。精神を病んで千鳥と遊ぶ智恵子を松林から光太郎が悲しく眺めていたことを知る人も少ないだろう。国民宿舎「サンライズ九十九里」の裏手にあるのでぜひ多くの人に訪ねてほしい。

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ところで、この詩には「ほんとの空が見たいといふ」(2行目)「智恵子のほんとの空だといふ」(最後から2行目)と「ほんとの」という語が2回使われている。

先のTwitterの引用にもそうあったので青空文庫も確認したが同じだった。

実はこのことにはずいぶん前にも気づいていた。何かで見たテキストが私の記憶と異なっていたのである。私の記憶では二度目の「ほんとの」は「ほんとうの」だった。

そのときに文庫の「高村光太郎詩集」を見て確認したはずだが、残念ながらその時以来詩集は行方不明。物をなくすのが私の悪いくせ。

ネットを検索して調べるとわずかだが「ほんとうの」としているものがある。

私としては、前者の「ほんとの」は智恵子の肉声に近い表現、後者の「ほんとうの」は光太郎が智恵子の言葉を言い直した表現だと解釈していた。

単にくりかえしを嫌ったというのではなく、「ほんとうの」と言い換えることですでに遠くに去った智恵子との距離感、一人取り残された詩人の思いがより鮮明に見えてくると思う。

まあ、これは私の独りよがりの解釈なので、どなたか「ほんとうの」ところをご存じの方は御教授いただきたい。
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通りすがりの者ですが

ネット上などで多くの方がそのように間違っていますが、「ほんとうの」は単なる誤りです。

by 通りすがりの者ですが (2021-01-19 21:34) 

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