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九の近況(12) [その他]

久しぶりに近況を書きます。

小説

物語は私にとって最も古い親友です。父親は商売人でした。映画は好きでしたが本を読んでいる姿は一度も見たことがありません。そんな父がある日「児童文学全集」を買ってくれました。幼い私はそれらの本、「巌窟王」「ああ無情」「家なき子」「フランダースの犬」「小公子」「若草物語」「秘密の花園」などを何度も繰り返し読んでは感動に心を震わせていました。いつかそういう物語を作る人になりたいと思っていました。ですから、売れない小説を書いている今がいちばん幸せかもしれません。

1月末締め切りの「千葉文学賞」(千葉日報主催)に応募したのですが、すでに文学賞自体がなくなっていたことを知り衝撃を受けました。長く続いた地元の文学賞だっただけにとても残念です。

2月は「第3回更級日記千年紀文学賞」(千葉県市原市・市原市教育委員会主催)に応募しました。市原は若いときに過ごした思い出の地です。一昨年も昨年も応募したいと思いながら、なかなか書けずにいたので初めて応募できただけで嬉しく思っています。

3月は佐賀県の嬉野温泉和多屋別荘が主催する「三服文学賞」に応募しました。大賞に選ばれると「ライターインレジデンス」の権利を1年間もらえるという副賞が魅力です。旅館に泊まって執筆。夢のようですね。ショートショートはあまり得意ではありませんが2編出しました。
「創元ミステリ短編賞」にも応募しました。「ミステリーズ」から改名して1回目の募集です。もともとは私の目標は江戸川乱歩賞でしたが、どうもミステリーは苦手なようです(笑)久しぶりに書いたミステリーの短編です。

4月は「創元ホラー長編賞」に応募しました。今年限りの募集だそうです。しばらく前に書いた絵画を題材としたホラー小説を書き直して応募しました。
「第18回ちよだ文学賞」(千代田区主催)にも応募しました。今回で4回目の応募になります。2回目に応募した『桜田濠の鯉』は第15回の千代田賞をいただきました。作品集にも載せていただき妻にも劇団の団員にも読んでもらいました。さて今回はどうかな。

5月は「京都文学賞」(京都文学賞実行委員会主催)に残念ながら応募できませんでした。これまで2回応募し一昨年は一次選考を通過しました。昨年から隔年開催になっているので次の募集は再来年になります。途中までは書いたのでこれから2年かけてしっかり完成させようと思います。
5月中に「第22回このミステリーがすごい! 大賞」に応募する作品をまとめたいのですが、かなり枚数をオーバーしているので、どこを削るか悩んでいます。

5月まで書いた新作は短編2本とショートショート2本です。ジャンルを絞るべきなのかもしれませんが、色々なものを書きたいという思いを抑えられません。むしろジャンルを超えた作品を書きたいと思っています。言うほど簡単ではありませんが。



小説は書きたいと思って書いていますが、詩は自然に湧いてきます。息を吐くのと同じです。世界を吸っていると必然的に詩が生まれます。詩を吐かないと苦しくなります。それが私の詩です。

詩誌「ココア共和国」への投稿を続けています。1月から3月は佳作集(電子版のみ)でしたが、4月、5月と傑作集(電子版と紙版)に載せてもらっています。4月号の『風に名を尋ねてみた』は齋藤貢さんの「絶賛」と秋吉久美子さんの「こりゃいいね!」をいただきました。両方付けていただくのは久しぶりです。5月号の『穴』にもやはり秋吉さんの「こりゃいいね」をいただきました。4月発表の「秋吉久美子賞」の選評には今年も名前を挙げてもらいました。秋吉さんの選評にはなんと「高平九は美しい佇まいの人だ」とありました。もう一人の選考委員である齋藤貢さんにも「賞に選びたいと思った一人」というお言葉をいただきました。お2人の言葉に胸が熱くなりました。お言葉を励みにまた1年投稿を続けようと思います。

「ココア共和国」は投稿詩を中心とした詩誌です。10歳に満たない子どもさんから80歳以上の年配の方まで、様々な世代の人が詩を投稿しています。ずっと詩を書いている人も最近書き始めた人もみんな平等に選考されます。一度電子版でも紙版でも読んでみてください。きっとあなたの胸を熱くする言葉に出会えると思いますよ。

詩誌「凪」2号にも同人として参加しています。「凪アンソロジー2023」にも参加予定です。

演劇

演劇は憧れでした。幼稚園では一人でキリギリスの役をやり、初めて舞台で歌いました。小学校では友達とお芝居を作って上演していました。でも、それからはずっと演劇は遠くから眺めるだけのものでした。30代でパントマイム、40代で芝居を始めました。劇団に入ってから今年で20年になります。芝居は作っているときがいちばん楽しい。稽古大好きです。

2月には座・劇列車としてSAMMU演劇際に参加。『村田さん』(鈴木聡 作)を上演しました。演出を担当し役者としても出演しました。『村田さん』はキャストは5人、35分ほどの上演時間です。とてもいい作品ですので多くの方に演じてほしいです。上演許可をくださった鈴木聡さん、親切に対応してくださった「ニベル」のスタッフの皆さんに感謝です。

3月には劇団ルネッサンスの公演にパントマイムで参加しました。久しぶりに同じやまさわたけみつ門下の先輩川島とも子さんと「舞夢」というユニットを組みました。老舗劇団の大黒柱として長年活躍していた小高皇司さんの引退公演ということもあり、とても温かな雰囲気の公演でした。参加させていただき感謝しています。自分のマイムがいかに錆び付いているか実感した公演でした。

先のことですが、8月27日(日)に千葉市民創作ミュージカル『千年天女』に出演します。3年前原作を書いて大賞に選ばれた作品です。キャストも集まり稽古も始まっていたのですが、コロナ禍のために無期限の延期になっていました。残念ながら今年は参加できないキャストもいましたが、新しい仲間を迎えて3年ぶりに上演できることをとても嬉しく思っています。本格的なミュージカルへの参加は初めてですので、毎回の稽古がとても新鮮で楽しいです。ちなみに私は踊りません(笑)

これも先のことですが、
10月8日には公民館まつり公演があります。演目は未定です。
12月3日には私の所属する四街道市民劇団 座・劇列車の第34回公演『ヒーローのいる町』(作・田悟健一)を上演します。2年連続のオリジナル作品上演は劇団始まって以来のことです。

来年2月には「長寿大学」修了式に呼ばれています。また今年に引き続き「SAMMU演劇祭」にも参加予定です

詳細は不明ですが、来年は千葉県演劇連盟主催の「千葉演劇祭」もあるそうです。

またもや充実した1年になりそうです。
番外

「伊藤園新俳句大賞」には毎年応募しています。今年は久しぶりに「二次審査通過のお知らせ」が届きました。3回目ですが、佳作入賞が1回、もう1回は落選でした。今度はどうなるか楽しみです。入賞すると名前入りのボトルがひと箱届きます。色んな人から「見たよ」という便りが届くのも嬉しいです。
長いブログにお付き合いいただきありがとうございました。

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『千年天女』原作について [小説]

3年前、私は千葉市民創作ミュージカル原作大賞に『千年天女』という作品を応募し大賞をいただきました。小笠原響先生の脚色・演出、音楽は日高哲英先生。歌唱指導は横洲かおる先生、ダンス振付は小林真梨恵先生。素晴らしい講師陣のもと市民のキャストも集い、立ち稽古を始めたばかりの頃に、コロナウイルス感染が広がり残念ながら無期延期となっていました。

その『千年天女』が今年の8月27日上演されることになりました。講師の先生方はそのままですが、キャストはそれぞれの事情もあり再結集というわけにはいきませんでした。しかし、4月から新たな仲間を迎え新しい配役で稽古が始まりました。

蛇足という批判もありそうですが、原作者として自作『千年天女』について思うことを記しておこうと思います。出演者の皆さん、上演を観てくださる皆さんのご参考になれば嬉しいです。

【もくじ】
1、羽衣伝説
2、天女の正体
3、千年
4、平常将
5、千葉市七夕空襲
6、機銃掃射
7、「おばあちゃんの戦争」


1、羽衣伝説

天女が舞い降りて木の枝に羽衣をかけ水浴びをしていると、男がやって来て羽衣を隠してしまうという伝説は日本各地にあります。

古くは滋賀県の余呉湖、京都府の丹後半島のものが「風土記」に記載されています。私は静岡県の清水出身ですので、幼い頃から三保の松原にある羽衣伝説に親しんできました。千葉にやって来てから千葉市にも同じような伝説があることを知り、機会があれば作品のモチーフにしたいと思っていました。

三保の伝説では、男(白龍)は羽衣と交換に天女に舞いを見せるように要求し、天女は優雅に舞いながら天に帰っていきます。ですが、千葉をはじめ他の伝説の多くは羽衣を家の様々なところ(米びつなど)に隠して、天女を妻にするというものが多いようです。羽衣公園の松の脇にある説明書きによると、羽衣を見つけた平常将が天女を妻にめとり、その話を耳にした帝から「千葉」の姓を賜ったとあります。「千年天女」の1場はこのことを元に書きました。そしてこの「千葉(せんよう)と咲く蓮の花」という美しいイメージが平和に暮らす民衆と結び付いたときに、この物語が生まれました。小笠原先生の演出でも舞台上にこの蓮池が出現します。どうかお楽しみに!!

2、天女の正体

天女の正体は白鳥とする説が有力なようです。日本各地に飛来した美しい白鳥を天女にたとえたというのです。また、羽衣はオーロラだという説もあります。かつては日本各地でオーロラが観測されたというこの説を私は気に入って作品に取り入れることにしました。ですから、冒頭に登場する3人の天女がそれぞれ青、緑、薄桃色の羽衣を身につけているのはオーロラのイメージです。白鳥だと白一色になってしまいますからね(笑) 天女はどんな衣装を着て、どん風に舞い降りて来るのか、それは観てのお楽しみです!!

天女は妙見菩薩様の使いという説も、千葉神社を崇拝する千葉市にふさわしいと思います。だから天女の名前は妙見菩薩を表す真言(マントラ)から付けました。真言とはインドの古代語、つまりサンスクリット語で「言葉」という意味です。ただし、単なる言葉ではなく「不思議な力を持つ秘密の言葉」なのです。仏様に呼びかけて加護を願うときにはこの秘密の呼び名を使います。例えば不動明王の真言は「ノウマク サンマンダ バザラダン カン」です。妙見菩薩は「オン ソチリ シュカ」と唱えます。

3、千年

一時、落語の「寿限無」が流行りましたね。私も小学校のとき友人と2人で覚えてクラスで発表しました。担任の先生が気に入って翌日の昼休みに全校放送しました。生放送だったのでとても緊張したのを覚えています(笑)その「寿限無」のなかに「五劫(ごこう)の擦りきれ(ず)」という言葉が出てきます。天女が下界に舞い降りてきて巨大な岩を羽衣で一擦りする。それを繰り返して岩がすり切れてなくなるまでの時間が「一劫」。「一劫」は40億年と言われています。これを5回繰り返すような永遠に近い時間が「五劫」だそうです。天女が下界に降りてくる間隔は3年とも千年とも、あるいは3千年とも言われています。私は天女が地上で生きられる限界を千年としました。特に根拠はありませんけど(笑)

4、平常将

平将門(たいらのまさかど)をご存知でしょうか。佐倉を本拠地としていた武将で、平安時代の中ごろ親族との領地をめぐる争いをきっかけに朝廷に対して謀反を起こし、一時は関東一帯を治めました。かつての大河ドラマ『風と雲と虹と』は将門の一生を描いたものです。と言っても1976年放送なので60代より上の人しかわからないですね(笑)

ちなみに将門は神様として東京の神田神社(神田明神社)にまつられています。除災厄除けの神様ですが、お参りすると勝負に勝つと言われ徳川家康も信じたそうです。ラブライバーの聖地として有名ですが、秋葉原が近いこともあり今では「アニメの聖地」として若者に人気があるようです。また「神田神社(将門)を崇拝するものは成田山新勝寺を詣でてはならない」という言い伝えがあります。成田山の不動明王は将門追討のために京都の神護寺から遷されたものだからだそうです。あまり気にしなくていいと思いますけどね。私はどちらもよく参拝します(笑)神田神社前の天野屋で甘酒飲んで、成田山参道で鰻を味わう。たまりません!!

その将門の次女春姫が平忠常の母親です。したがって平常将は将門のひ孫ということになります。父親の忠常も祖父の将門と同じように反乱を起こしました。どちらの乱もきっかけは強欲な身内や国司との争いでしたが、結果として朝廷に敵対することになってしまいました。

しかし、討ち死にした将門とは異なり忠常は子の常将、常親とともに降伏します。そして京都に連行される途中病死してしまいます。朝廷は降伏した忠常の息子たちを赦し、国に戻った常将らは戦乱によって荒廃した国を再建することに尽力したそうです。

天女を妻にしたというのは伝説に過ぎませんが、美しく聡明な妻とともに国の再建に尽くす常将に、帝が褒美として「千葉」という姓をたまわったという話は好きです。謀反人の子に褒美をくださるなんて、なんと寛大な帝でしょう。

「千年天女」では平和な世の中を思う常将ですが、実は源義家に従って「前九年の役」で戦功を上げたそうです。

常将の孫である常兼は大椎(現在の緑区大椎町)に拠点をおいて大椎権介常兼(おおじいごんのすけつねかね)と名乗りました。そして、その子常重が千葉介常重(ちばのすけつねしげ)と名乗ったそうです。常重の治める千葉庄は下総最大の荘園でした。

千葉氏の祖として知られる常胤(つねたね)は常重の子です。常胤は源頼朝が平家との戦いに敗れて房州に逃げて来たとき、いち早く味方となりました。その後、平家との合戦にも軍功を上げて、鎌倉幕府の有力御家人になり全国に多くの所領を獲得しました。『鎌倉殿の13人』では岡本信人さんが演じていましたね。ちなみに佐藤浩市さんの演じた上総介広常も常将の子孫です。広常が頼朝に粛清された後、その所領のほとんどは常胤が引き継ぎました。

常胤の所領は6人の子が受け継ぎ、千葉氏の種は東北、九州など日本各地に蒔かれて育つことになります。

5、千葉市七夕空襲

私は自分が書くものはなるべく戦争について触れるように努めています。50代以上の方はおそらく分かっていただけると思うのですが、私たちは戦中戦後を生き延びてきた親から戦争の話を聞いて育った最後の世代だと思うからです。B29のブルンブルンという不気味なエンジン音、焼夷弾のヒューヒューという風を切る落下音。空襲のなかを逃げ惑う恐ろしさ。防空壕のなかで耳をふさぎながら死を覚悟したこと。私は10代前半の母の体験をまるで自分が体験したように思い浮かべることができます。この間接的な戦争の記憶をたとえほんの欠片であっても次の世代に伝えるのが自分の役割だと思っています。

私の母は14歳の女学生のときに東京下町空襲を体験しています。家族は秋田に疎開していたのですが、あまりに退屈だったので、祖父のいる東京に戻った直後のことでした。
ですから、B29という名称は幼い頃から母に聞かされていました。ボーイング社が開発した大型戦略爆撃機※B29は、全幅43メートル、全長30メートル。高度10000メートルの上空を飛び、愛称は「スーパーフォートレス(超空の要塞)」といいました。他の米軍爆撃機がモスグリーンとスカイブルーに塗装されているのに、この機体だけはジュラルミン合金のままの姿でした。軽量な合金の利点を生かすためだったと思います。塗料の重さだけでも高度や速度、航続距離に影響するようです。あるいは目立つことのリスクよりも不気味な機体を見せつけることを優先したのかもしれません。

※戦略爆撃機とは戦場から離れた敵の領土を攻撃するための重爆撃機のことです。戦場で使うものは戦術爆撃機といいます。

米軍は日本の占領下にあったマーシャル諸島のグアム、サイパン、テニアンを奪還すると、その島々にB29を配備して日本本土への空襲を始めました。まずは日本の主要都市が爆撃の対象になりました。ただ、初期の空襲は昼間、10000メートルの高高度からの爆撃であったため、それほど精度は高くなかったようです。明るい中での戦闘のため、日本軍による対空放火※や戦闘機による攻撃も一定の成果を挙げました。また強い偏西風に悩まされ、機体をぶつけて損傷し墜落する事故もあったようです。

※対空放火とは地上から敵の爆撃機または戦闘機を攻撃することです。

B29にはそれぞれの機に12名が搭乗していました。空襲のたびに数機が撃墜され、多数の戦死者が出るのに爆撃の成果は上がりません。批判された軍は、司令官を交代させ大幅な作戦の変更をしました。それが3月10日の東京大空襲です。高度を3000メートルに下げ、夜間の爆撃に切り換えたのです。日本の戦闘機も対空放火もレーダーの能力が低く、ほとんど目視による攻撃でしたから、夜間の爆撃には対応できないと考えたのです。機銃を外してその分多くの爆弾、焼夷弾を搭載したそうです。

硫黄島を手に入れた米軍は島の基地からP-51マスタングという戦闘機をB29の護衛として発進させることもできるようになりました。また日本周辺の制海権を握ってからは空母からF4Fワイルドキャット、F6Fヘルキャット(どちらもグラマンです)などの艦載機をやはり護衛として飛ばしていました。これらの護衛機は唯一の脅威だった日本軍戦闘機の体当たりを防ぎ、以来B29は何の障害もなく日本本土への爆撃が可能になったのです。

日本の主要都市への空襲が一定の成果を上げると、矛先は地方都市に向けられました。千葉への空襲もその一つです。

6月10日に蘇我の日立工場を襲った爆撃は爆弾が使用されたそうです。ところが7月7日の千葉空襲では主に焼夷弾が使われました。焼夷弾は木と紙で作られた日本家屋を焼くための爆弾です。落下の途中、地上から700メートルのところで、六角形の親爆弾が分解して、中から38(または48)の子爆弾が飛び出します。子爆弾にはそれぞれ真っ直ぐに落下させるためのリボンが付いていて、建物の屋根を貫通するように工夫されていました。信管は時限式で、爆弾が横になって数秒するとゲル状のガソリンが30メートルの範囲に火の玉となって飛び散ります。この粘性の強いガソリンはナパームとも呼ばれ、家屋や人の体に貼り付くと簡単には剥がれません。バケツの水などでは消すことができない残酷な代物です。余談ですが、当時の人は落ちてくるのが焼夷弾だと分かると田んぼに逃げたそうです。地面が柔らかな土では焼夷弾は不発になることが多いからだそうです。ガソリン混じりの空気は喉を焼き、喉が痛くても溜まった水にはやはりガソリンが混じって飲めません。

房総半島はB29の通り道でした。空襲警報は夜間に頻繁に鳴らされ、市民はうんざりしていたようです。この夜の警報も編隊が通り過ぎて一時解除されました。実はこの夜の空襲は千葉市だけではなく、甲府と私の出身地清水も同時に目標になっていました。ですから、甲府や清水に向かう編隊を見て今夜も千葉には空襲はないと思い込んでしまったようです。それでも、不安に駆られて市内を出ようとした人もいました。しかし自警団に追い返されたそうです。逃げるのではなく鎮火に努めなさいという軍の命令だったのです。この命令によってさらに犠牲者が増えました。

米軍はまず市内の周辺部分に爆弾と焼夷弾を落とし、逃げ場を奪ってから内部を焼夷弾で焼き尽くしました。火に巻かれて、多くの人が命を落とし、家族を失い、火傷を負い、家を焼かれました。※

※資料 『千葉市空襲とアジア太平洋戦争の記録100人証言集』2009年
『千葉市空襲の記録』1980年

どちらの資料にも空襲を体験なさった市民の証言が綴られています。市内の図書館には置いてあるはずなので、ぜひ読んでみてください。

6、機銃掃射

機銃掃射とは機関銃によって敵をなぎ払うように攻撃することです。ここでは千葉空襲で人々を襲った戦闘機による機銃掃射について書きます。

7月7日の千葉空襲ではP-51マスタング(グラマンだったという説もあります)がB29の護衛をしていました。
B29による爆撃が終わると、戦闘機は火災のために昼間のように明るくなった市内を機銃掃射しました。先に焼夷弾を避けて田んぼに逃げた話を書きましたが、田んぼや埋め立て地、砂浜などにいる人々はこの標的になったようです。

当時は空襲に備えてあちこちに防空壕という避難所が作られていました。ところが防空壕もけして安全な場所ではありませんでした。焼夷弾の直撃によって多くの人が防空壕のなかで亡くなったそうです。実際、千葉市文化センターのすぐ近く(旧パルコのあたり)にも、大きな防空壕がありましたが多くの方がその中で亡くなりました。防空壕に残るか外に逃げるか人々は迷いました。そして、壕に残った人は火に焼かれ、逃げ出した人々には機銃掃射が襲いかかりました。

当時の米軍では、予定の目標を攻撃した後、目標を自分で選んで攻撃することが許されていたそうです。B29の護衛をしていたはずの戦闘機が各地で目撃されているのはそのためです。作家の開高健氏や指揮者の小澤征爾氏が機銃掃射された体験を語っています。2人ともパイロットの笑う顔を見たそうです。逃げ惑う人々を見て笑っていたパイロットは何が面白かったのか?
中には小学校の近くで下校する生徒を待ち受けて攻撃した例もあるといいます。おそらくそのパイロットにも国に愛する家族がいたことでしょう。戦争が人を狂わせるのです。

戦果を記録するために戦闘機にはガンカメラが装備されていました。パイロットが機銃を撃つと自動でカメラが作動して攻撃の様子を記録しました。ガンカメラの映像はYouTubeなどで見ることができます。恐ろしい威力です。狙われたらとても逃げられません。

7、「おばあちゃんの戦争」

私の母も物干し台で洗濯物を干しているときに米軍の戦闘機を目撃したと話していました。

最後に母のことでもう一つ思い出したことがあるので付け加えさせてください。

子供たちがまだ小学生のときです。母の戦争体験をぜひ聞かせたいと思い語ってもらったことがあります。ビデオも撮影し「おばあちゃんの戦争」とタイトルを付けました。孫やひ孫にも見てほしい我が家の宝になるはずでした。
長い思い出話の後で、母は真面目な顔をして言いました。
「いいみんな。だから戦争は絶対にやっちゃだめ。祖母ちゃんは戦争中つらいことがたくさんあったからね。みんなにはあんな思いをしてほしくない」
 ここで母はにっこりと微笑みました。
「でも、どんなときもね、あたし恋だけはしてたのよ」
 息子たちは複雑な顔をして満足そうに笑う母を見ていました。この最後の一言で家宝にしてよいものか迷っています(笑)

 広島で被爆して亡くなった女学生たちは地味な服ともんぺの下に、お洒落なお手製のシャツやスカートを重ねて身に付けていたそうです。
 そう言えば、千葉空襲の看護師さんの証言にも、命からがら逃げるとき手荷物のなかに化粧道具をしのばせていたという話がありました。この女性は結局身に付けていたコンパクトが機銃掃射の弾を防いで九死に一生を得たそうです。
 当たり前のことですが、悲惨な空襲の下にも普通の青春や生活があったんですね。戦争はそういう人々の暮らしや人生をすべて奪ってしまいます。

 私が書いた原作のテーマは「平和」です。平和も豊かさも多くの日本人が求め続けてやっと手に入れた宝物です。その宝物を失わないためにはどうすればいいのか?その宝を世界のものにするためにはどうすればいいのか?

今回のミュージカルが私たちに突きつけられたこの大きな「[?]」について考えるきっかけになれば嬉しいです。

長い話にお付き合いいただきありがとうございました。

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