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皇産霊神社に初詣 [その他]

四街道市和良比の奇祭「はだか祭り(どろんこ祭り)」で有名な皇産霊神社(みむすびじんじゃ)に行って来ました。

昨年の公演の際、四街道市文化センターホールのホワイエに鉛筆画で有名な福田芳生さんの作品が展示されていました。それを見た劇団の入村代表が興奮したように私たちに報告したのです。
「皇産霊神社の近くの防空壕と思い込んでいたものは実は本土決戦に備えて少年たちを訓練する施設だったみたいだ。子どもの頃、近くで遊んでいたのにまったく知らなかった」

福田さんの絵の説明によると、少年たちはその施設で敵戦車前に爆弾を抱えて飛び込む訓練をしていたそうです。

当時の軍部は、九十九里浜から連合軍が上陸し東京に向けて進軍すると想定していたそうですから、途中で待ち伏せして戦車を破壊するための少年ゲリラ兵を育成していたのでしょう。

皇産霊神社はもっと遠いところにあると思い込んでいましたが、実は家から徒歩30分のところにあることを知りました。しかもかつて何度も歩いた散歩コース沿い。迂闊過ぎます(汗)

四街道駅の南口前から真っ直ぐ延びている「おやしき通り」の道沿いに神社に通じる小道があります。「おやしき通り」はかつて豪農ばかりが居を構えていたためその名が付いたそうです。駅から徒歩で20分ほどだと思いますが、かなりの急勾配を下りて上るので足に自信のない方はバスを利用してください。四街道駅発「みそら団地行き」に乗り「皇産霊神社前」降車。

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バス停の先に「どんぐりの森」という手書きの表示がありますので、その小道を左に入ります。この表示はなぜか駅とは反対向きにかけられているので見逃しがちです。畑と住宅の間の細道をしばらく進むと左手に神社の森が見えてきます。右手にあるのが「どんぐりの森」という子供の遊び場です。

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この神社は、明治までは大六天神社(だいろくてんじんじゃ)という名称でした。地元の人は今でも「大六天様」と呼ぶそうです。「大六天」は「第六天」とも書き、仏教における欲界の最高位「他化自在天」の別称で、衆生の欲望を叶えることを喜びとします。欲望を捨て去ることを説いた仏教では修行を邪魔する悪魔のように位置付けられていましたが、庶民にとっては何でも願いを叶えてくれる存在ということで関東を中心に広く信仰されました。織田信長が自身を「第六天魔王」と称したという話もあります。「大六天神社」は元々神仏習合の寺院でしたが、明治の廃仏毀釈運動により御祭神を変更したり、この神社のように他の神様を合祀したりして存続をはかったそうです。当地では厄除けの神様として信仰され、子どもたちの無病息災を願って「はだか祭り」が行われたようになりました。

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一方、皇産霊神社は日本各地にあり、天地造化の大神、高皇産巣日神(たかみむすびのかみ)、神産巣日神(かみむすびのかみ)の二神大神を主祭神として皇産霊大神と尊称しています。高皇産霊神は男神、神皇産霊神は女神とされ、これら二神の「ムスビ」が宇宙の根本と考えられています。しかし、明治になって近くにある寺院の吉祥院から分かれなくてはならなくなりました。そこで大六天神社に合祀されたというわけです。

つまり、廃仏毀釈によって名称を隠したい第六天神社、吉祥院から分かれなくてはならなくなった皇産霊神社、両者の利益が噛み合ってできた神社ってことですね。まさに「ムスビ」の神です。

神社に向かう小道

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鳥居

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狛犬

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本殿

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境内

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1月4日世の中は仕事初め。午前中の境内には人影はなく、とても静かで空気が澄んでいます。深く積もった枯葉に足を沈めながら境内の裏手にも回ってみました。木々の間から和良比の町を望むことができます。

帰りしな可愛い参拝者たちと出会いました。近くの保育園の子どもたちでしょう。はしゃぐ声を聞きながら、来たのとは反対の道を下りて行くと市立四街道中学の裏手に出ました。

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ふと大事なことを忘れたのに気付きました。代表の言っていた施設を確認していなかったのです。仕方がないので道を戻ってそういう施設がないか見て回りましたが、結局見つけることはできませんでした。おそらく代表が子どもの頃は施設の一部が残っていて、福田芳生さんはその施設の由来を地域の古老から聞いていたのでしょう。しかし、施設の残骸が片付けられ、由来を知る人がいなくなれば、すべて忘れ去られてしまいます。今更ながら町や村の記憶というのは誰かが残そうと努めなければ、なかったことになってしまうのだなと思いました。

本土決戦前には上陸地点である九十九里浜から東京への経路にこのような施設がいくつも作られたことでしょう。配備されたのは義勇兵として動員された少年たちです。

まだまだ情報が足りませんが、皇産霊神社の近くで本土決戦に備えていた少年たちのことはぜひ形にしたいと思っています。

森の中にひっそりと鎮座する小さな神社です。近くの方は一度お参りしてみてはいかがですか。

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