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不思議な感覚 [その他]

先日、あるテレビ番組のなかで、

芝居の最中に周囲の人がゆっくり動いているように感じたことがある」と話している俳優さんがいました。そして、共演している女優さんも「私も同じ経験をした」と言っていました。

ゾーンに入ったみたいなことですか」と司会者が尋ねましたが、俳優さんたちは「そうかもしれない」と言葉を濁しました。

ゾーンに入る」というのは、今では脳内麻薬とも言われる「βエンドルフィン」によって起こる科学的な現象と認識されていると思います。しかし、いまだに世迷い言だと決めつける人も多いことでしょう。俳優さんたちの曖昧な態度もそういう批判を怖れたからかもしれません。

ゾーンに入る」という言葉自体は比較的新しいものですが、その感覚は昔から有名でした。例えば、赤バットで知られる巨人軍の川上哲治氏が「ボールが止まって見える」と言ったという逸話(実際は小鶴誠という選手が言った言葉のようです)

極度に集中力を高めることによって、人は誰にとっても平等であるはずの一秒を数秒にも感じることができるようです。流行りの言葉で言うと「全集中」ですね(笑)

武闘家がその状態になると敵の動きが緩慢に見えスキだらけに感じます。

サッカー、バスケットなどの球技の場合には相手チームの選手のプレーを遅く感じたり、ピッチやコート全体が俯瞰できたりします。

棒高跳びや走り高跳びの選手はバーの位置を低く感じることでしょう。

マラソン選手は42.195㎞をとても短く感じるのかもしれません。

ギタリストのエリック・クラプトンは「スローハンド」と呼ばれました。ゆっくりと指を動かしているように見えるのに、複雑で難しい奏法ができるからだそうです。優れた音楽家は皆そういう感覚を持っているのでしょう。でなければ、あんな神がかった演奏はできません。

夏目漱石の『夢十夜』の『第六夜』には、護国寺の山門で仁王を彫る運慶が登場します。主人公が感心していると見物人の若い男が「眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ」と言います。

「明治の木には仁王はいない」という主題とは離れますが、これもまた優れた芸術家が「ゾーンに入る」感覚をうまくたとえていると思います。自分が創っているのではなく誰かに創らされているような感覚とでも言うのでしょうか。

多くの芸術家たちが言う詩神ミューズの降臨です。

私のパントマイムの師であるやまさわたけみつ先生は、同じ演目をくりかえし演じています。先生の師匠であるマルセル・マルソーもそうだったようです。

自然に観客も同じ演目を何度も見ることになります。でもけして飽きません。先生の公演は常連の人がほとんどです。会場は水を打ったように静まり、舞台上の先生の演技に集中しています。すると、前回まで見えなかったものが見えるようになってくる。同じ演目なのに全く違うディテールを発見するのです。

やまさわ先生はどんな観客の鑑賞にも負けないほどの緻密さで作品を練り上げ、そしてどんな観客をもしのぐ集中力で演じていることでしょう。

古来、達人と呼ばれる人は、難しいことをいとも簡単そうにやってのけるものです。集中力を高めることがそれを可能にするのであり、その極限に近いものが「ゾーンに入る」なのだと思います。

もう13年も前のことになりますが、モリエールの『いやいやながら医者にされ』という芝居を上演しました。私の役はスガナレルといって、最初から最後まで舞台上を動き回り、訳のわからないことをしゃべりまくる役でした。まだ芝居を始めたばかりでしたので、力の抜き方などまるでわかりません。あいにく仕事も忙しい時期でしたから、とにかく必死でした。毎回栄養ドリンクを飲んで稽古に臨んだことを覚えています。

ようやく迎えた本番中に突然時間が止まりました。

舞台上に相手役がいて台詞を言っています。私はそれを聴いています。次の自分の台詞までの数秒が実にゆっくりと進んでいるように感じられました。照明が光の粒子となって相手役と私の上に降り注いでいてなんとも美しい眺めでした。数百人の観客に見られていることなど完全に忘れて、不思議な幸福感だけが心を占めていました。

当時は「ゾーンに入る」などという言葉は知りませんでした。他の劇団員にその話をしてもあまり手応えがありません。変な人と思われないようにその体験はあまり人に話さないようにしていました。

自分が達人などというつもりは毛頭ありません。ただ、そのとき初めて観客の目も自分の演技の出来も関係なく、スガナレルという役柄として生きることに集中できたような気がします。そして、初めてお客さんが興奮して「よかったよ」と声をかけてくれたように感じました。

できればもう一度くらい、あの感覚を味わいたいと思います。おそらく、何度もその感覚を味わいたいと思う人はプロを目指すのでしょうね。

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