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小説 『バス』(3655字) [小説]

小説 『バス』

 小さな影が羽音とともによぎった。泉水みさきは思わず空を仰いだ。気温はまだ低いが空は晴れ渡っていた。それを見つけたみさきは慌てて顔を俯けた。
「ママ。ヘリトプター」
 2歳くらいだろうか、女の子がベンチの上で足をぶらつかせながら傍らの母親に言った。黄色い帽子が可愛い。
「そうね。パパが乗ってるのかもね」
「行ったった」
「行っちゃったね」
「また来ゆ」
「うん。また来るよ、きっと」
 機械的な羽音が消えたのを確信してから、みさきはゆっくりと空を見上げた。ドローンの姿はもうどこにもなかった。
 ローカル線の無人駅ではみさきを含めて4人の客が降りた。切符の回収箱の脇に立っていた車掌は驚いた顔をした。きっと一度に4人が降車するなど珍しいことなのだ。駅舎の前のバスターミナルには錆びたベンチが一台あるだけで他には何もなかった。ただ早春の日射しがゆっくりと雑草の生えた空き地を温めていた。
 母子連れとみさきはベンチに腰掛け、サングラスの女は1人離れて、駅舎の日陰で野良猫の写真を撮っていた。
「ドローンの意味を知ってるか? ハチの羽音のことなんだぞ」
 3年前の夜、須藤雅彦が言った。雅彦はそういう雑学が得意でよく同僚たちに吹聴した。高校中退のみさきは教養についてコンプレックスがあったせいか、いつの間にか雅彦に恋をしていた。
 ここから山をいくつか隔てたところにある鄙びた温泉地で、2人は神社の祠の床下に穴を掘っていた。2億円の現金が入ったバッグを埋めるためだ。
「あたしたちを監視してたんじゃないよね」
 夕方、金を埋める場所を物色していた2人の上をドローンが何度か通ったのをみさきは気にした。
「バーカ。そんな訳ないだろ。ドローンてのは飛行場の近くとか人口密集地じゃ飛ばせないからよ、それで暇な連中がこんな田舎で遊んでんだよ。第一よ、俺たちが2億円を持ってるのを誰が知ってるって言うんだ。クッソー、蜘蛛の巣だ」
 スコップで掘った土からは湿った匂いがした。金が入ったバッグを胸に抱えながら、それはきっと罪の臭いだと思った。みさきが向けていた懐中電灯の明かりが雅彦の手元からずれた。
「ちゃんと照らせよ、バカ。何びびってんだ。大丈夫だって。課長が死んじまったからよ、横領の総額がいくらなんて気にする奴はいねえよ」
 雅彦とみさきは上司である経理課長の軽部が会社の金を横領しているのを知っていた。軽部は毎年正月休みにマカオのカジノで遊ぶことを唯一の生き甲斐にしていた。その資金として政治家への賄賂を少しずつ抜いていた。小さな綻びが大きな穴になるのにそれほどの時はいらない。着服した金の総額は10億円に達していたはずだ。小心な軽部は賄賂の着服が発覚することをひどく畏れた。気付いた雅彦は次第に憔悴する軽部の様子を計りながら、2億円の横領をみさきに持ちかけたのだ。みさきは雅彦の指示したとおり、軽部が会社の金も横領したようにみせかけて2億円の金を手に入れた。軽部の自死によって上層部はやっと横領にも気付いた。だが、その金が賄賂の一部であることを隠蔽することに必死で、みさきが軽部のせいにした横領のことまでは気にしなかった。
「いいか。これから俺たちは赤の他人だ。5年経ったらここに来て金を掘り出し東南アジアでマネロンしてよ。後は贅沢に生きようぜ」
 そう約束をして別れたきり3年間一度も雅彦とは会っていないし、連絡もとっていない。彼は今でもみさきが自分に恋していると自惚れているに違いない。
「ねえ、ママ。おばばのうちにパパ来ゆ?」
 幼子の声がみさきの中の雅彦の声をかき消した。
「そうね。マミに会いに来るよ、絶対に」
 母親の声がかすれた。みさきと目が合うとまだ30歳になるかならないかの母親は軽く会釈をしながら目尻を指で拭った。
 どんな馬鹿でもこの母子がどういう状況かは分かった。最近、夫であり父親である人を亡くして、田舎の親を頼ろうとしているのだろう。
 みさきは3年前に雅彦の子を宿していた。だが結局言えなかった。また馬鹿呼ばわりされるに決まってる。あの子を産んでいたらちょうどこの子くらいになっていたはずだ。下腹部が疼いた。居たたまれなくなったみさきはベンチを立って駅舎の自動販売機の方に歩いて行った。
「ねえ。やっぱり分かった?」
 自販機の前で飲み物を選んでいるみさきにサングラスの女が声をかけた。
「さっきのドローン見たでしょ。あれってあたしのこと探してるんだと思うの。それにしてもマスコミってしつこいよね。完全に巻いたと思ってたのに……あんた、まさかマスコミの人?」
 みさきがかぶりをふると、
「そうよね。どう見てもただのベテランOLさんって感じ。ねえ、あたしのこと知ってるよね」
 女の細い指が大きなサングラスを下げた。若手女優の橘ルイ。列車のなかで暇潰しに読んだ写真週刊誌に妻帯者の中堅男優と沖縄のビーチで戯れる写真が掲載されていた。
「何飲む。御馳走する」
 ルイはそう言って千円札を自販機に入れた。
「彼がね。妻とは別れるから今後のことを相談しようって。それにしてもこんな田舎で逢わなくてもねえ。サスペンスドラマならあたし間違いなく彼に殺されるパターン」
 ルイはそう言って笑った。日陰は冷えるからだろう。熱い缶コーヒーで両手を温めていた。みさきは炭酸飲料を飲みながらルイを追いかけて温泉地にもマスコミが押し掛けて来たら困るなと考えていた。
 雅彦への恋心などとっくに覚めている。それでも3年我慢した。だがもう限界だった。ネット社会は便利だ。馬鹿なあたしでもネット検索すればマネーロンダリングのやり方も、国外に大金を持ち出す方法も分かった。2億円ぼっちでは一生安楽とはいかないけど、しばらくは海外で気楽に生活できる。それに2年後にあたしが金を持ち逃げしたと分かっても、雅彦はけして騒ぎ立てることなどできない。
「いい。万一、あたしが殺されちゃったら、あなた警察にちゃんと言ってよね」
 ルイがみさきの目を覗きこむようにして言った。みさきはうんと頷いたが、もちろんそんな証言などする気はない。缶ジュース1本で証言しろですって。みさきはルイの甘い考えに呆れた。
 バスが上り坂をよいしょとばかりに越えてターミナルに入ってきた。乗客は4人だけだった。
 橘ルイは指定席にでも着くように最後部の座席を独り占めしながら、半ば彼が「妻と別れるから結婚してくれ」と懇願する甘い未来を想像し、また半ばは彼が邪魔な自分を殺してこの山中に埋めるという残酷な未来を想像していた。そして、どちらにしても自分がヒロインとして輝く2つの魅力的なストーリーにうっとりした。
 みさきはバスの中ほどの一人がけの席に座った。
 通路を挟んだ反対側では女の子が靴を脱ぎ座席に膝をついて窓の外を見ていた。その後ろで我が子を見守る母親。彼女は実家の母がどんな顔で娘と孫を迎えるのかを考えていた。やがてはこの子も、かつて自分がしたように、こんな田舎に連れて来た母親を憎んで家を出て行くにちがいない。でも、この子を育てるには実家を頼るしかない。なんで死んだのよ。最後は決まって亡き夫への思慕と憎悪が綯い交ぜになった。
 バスは山道を峠に向かって蛇行して進んだ。みさきの側の窓には崖が迫っていて、時折伸びた雑草が窓ガラスを打った。反対側の窓からは深い谷を隔てた山々にいくつもの白やピンクの山桜が見えた。
 みさきは温泉地の村に着いてからのことを考えた。まずは今夜、宿を抜け出して祠の床下の金を掘り起こす。そして明日になったら掘り起こした金を郵便局と宿の宅配便、それから手持ちのボストンバッグの3つに分けて送る。一時的に金を保管するために専用のアパートを借りてあった。そこを拠点にして、前もって現地に赴いて契約した海外の銀行口座に少しずつ送金する手筈だ。みさきは明るい未来を想像して微笑んだ。
「ヘリトプター!」
 という子どもの声がして、みさきは反射的に顔を伏せた。おそらくルイも後部座席でその美しい顔を背けているに違いない。
「可愛いヘリコプターだね」
 窓の外を盗み見ると、白と黒にカラーリングされたドローンがバスに並走して飛んでいた。黒い目玉のようなカメラがはっきり見えた。バスの中に視線を戻そうとしたとき、いきなりの衝撃が襲った。危うく椅子から落ちそうになるのを何とか椅子の手すりにしがみついて堪えた。
 ルイの黒いハイヒールが固い音を立てて転がってきた。子供を抱き締めた母親の顔が何かを見つめて恐怖に歪んだ。みさきは母親の視線の先に目をやった。バス会社の広告の向こうで運転手の頭が左に大きく傾いでいた。その帽子が落ちたと思った瞬間、新たな衝撃が来た。みさきの体が宙に浮いて後は混乱が支配した。
 ガードレールを紙のように裂いてバスは谷底に転がり落ちた。凄まじい音がしたが深い谷に吸い込まれて誰の耳にも届かなかった。ただ、ドローンの黒い目玉が冷たくバスの行方を追っていた。

                                        了
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