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小説 『死神と老女』(4644字) [小説]

小説 死神と老女

 病室の窓から見えるのは倉庫の屋根と高圧線の鉄塔ばかりだった。高圧線の彼方から人の声がした。
「海の見える部屋で終わりたかったなあ」
 良子は心の奥でそう呟いた。でも、仕方ない。一人息子の俊太郎は市役所に勤めるしがない公務員だ。それに大学生の子どもが2人いる。今までだって毎月の仕送りや訪問看護の費用などで無理をさせている。これ以上は分不相応だ。そんなことは分かってる。でも……。
「海が見えればいいのに」
 ふた月前に救急車で運ばれて以来、昼間はいつも同じ言葉が胸の奥から湧いてくる。
 10年前、良子と夫は住み慣れた焼津から武蔵小金井にある良子の母親のアパートに越して来た。周囲には母親の介護のためと説明していたが、実は家業の電器店の経営が手に負えなくなったからだった。母親はその年99歳で亡くなった。夫が認知症を発症したのはその2年後だった。
 1歳若い夫は「お母ちゃんが待ってるから帰る」と言って深夜に部屋を出て行くようになった。もちろん最初のうちは止めていた。だが力の強い夫を抑えることはできなかった。名札を持たせているので、きまって朝になると警察官に保護されて戻ってくる。そして夜に暴れたことなどすっかり忘れて警察官に愛想を言ったりしている。やがて認知症が悪化した夫は入院し、そのまま老人施設に移った。良子は毎日バスで1時間かけて夫に会いに行った。良子が誰かも分からないくせに、差し入れの甘い物にだけは反応する夫が良子は憎らしかった。5年前、臨終の際に夫は急に「アジャラカ……」と呟いた。良子が「えっ。何ですか?」と言うと夫はにっこり笑って目を閉じた。悲しくはなかった。やっと夫から解放されたと良子は感じていた。
 今、良子は両手をベッドの金属の手すりに紐で縛りつけられていた。ベッドに拘束されたまま亡くなった夫の気持ちが少し分かった。
「こうしないと酸素マスクや点滴のチューブを外してしまうから仕方ないの、ごめんなさいね」
 良子がグズると担当の女医はそう言って額を撫でてくれる。それは嬉しい。でも、そうされると母親を思い出す。小金井のアパートに帰りたいと思う。もちろん、そこに母はもういない。それは分かっている。
「おふくろ」
 俊太郎の声がした。窓を向いていた頭をゆっくりと反対に向ける。自然に顔がほころんでしまう。
「こんにちは。お母さん」
 嫁の美佐子さん。孫の雄太と玲香も一緒だ。
「お祖母ちゃん。具合どう?」
 雄太は大学3年。子どもの頃からテニスばかりやっているので顔はいつも真っ黒だ。気が弱いのでなかなか試合に勝てないという。確かにいつも何かに負けたような落ち着かない目をしている。顔つきも性格も父親の俊太郎にだんだん似てきた。
「ねえ。お祖母ちゃん。あれ、出た?」
 玲香は大学1年生。色白で整った顔立ちをしている。若い時の良子に少しだけ似ている。まだ大人の女とは呼べないけど、今に男達が群がるようになるだろう。
「出たよ……昨日も」
「えーっ、やっぱり」
 玲香がベッドの手すりから白いワンピースに包まれた身体を乗り出して良子の顔を覗き込んだ。大きな明るい瞳に薄ぼけた良子の顔が映る。思わず目を背けた。
「ねえ。お祖母ちゃん。夜な夜なやって来る恋人達の話、聞かせてよ。イケメンばかりなんでしょ」
「うん……」
「やめろよ。87の婆の恋バナなんて聞きたくもねえよ」
 俊太郎が窓辺のイスにだらしなく腰掛けて外を見ながら言った。また少し太っただろうか。だんだん死んだお父さんに似てきた。あの人はあたしに群がった男達の中では冴えない方だったけれど、とにかく人を飽きさせない人だったな。それと比べるとこの子は真面目なだけで面白くない。
「パパひどォい」
 玲香がほっぺを膨らませて怒っている。
「お母さん。話してください」
「俺も聞きたいな」
 美佐子や雄太までが言い出すと俊太郎は不機嫌そうなため息を吐いて開いたままのドアに向かった。
「あなた……」と美佐子が声をかけた。俊太郎は背を向けたまま暗い声で、
「何か飲んでくる」と言い捨てて部屋を出て行ってしまった。
 俊太郎は良子に優しかった。でも、その仮面はささいなことで剥がれて、ときおり苛立ちを露わにした。何を怒っているのだろう。人生のどこかであたしは俊太郎に何かひどいことを言ったかもしれない。良子はそのことをずっと気にしながらも、問い質すことも自分の記憶を探ることもしないでいた。今となってはどんな記憶も取り出しようがないし、俊太郎が自ら良子にその理由を告げることもけしてないだろう。
「それで、昨夜はどんな人だった」
 玲香の好奇心がさらに深く良子を覗き込んでいた。
「昨夜はね……」
 鼻と口を覆った酸素マスクが声をよどませた。良子は顔の筋肉を動かしてマスクを外そうとした。
「ダメダメ。お祖母ちゃん。これ外したら苦しくなっちゃうよ」
 玲香の白い手がたどたどしく酸素マスクを元の位置に戻した。
「……そう?」
「そうだよ。それで……」
「……園部さん」
「誰? そのべって」
「家に、来た……結婚の……約束」
「えーっ、フィアンセがいたの?」
「うん……」
「お母さん知ってた?」
「ううん。初めて聞いた」
「びっくりだぜ」
 この数週間、夜になると昔の男達が良子の部屋を訪れた。予科練に行き特攻隊員として散った幼馴染み。伯父の家の書生だったあの人も南方に出征して帰らなかった。防空壕で良子への思慕を告げた脚の不自由な彼。無理矢理ジープに乗せられてGI達に犯されたとき、一人だけ何度も「ソーリー」と言ってチョコレートをくれた若いアメリカ兵。南方から復員した親友のお兄さん。良子が学生芝居でヒロインを演じたときの相手役。女学校を卒業してすぐに勤めた大手建設会社の同僚。銀座の百貨店にいたときの婦人服売り場の上司。ダンスホールで知り合った名も知らぬ男などなど。夫以外の男達はみんな一度ずつ良子を訪ねてきた。そして昨夜はとうとう園部が来た。
「良子さん。久しぶり」
 園部はかつての快活な気性のままに良子のベッドの脇に立った。ほんとうに久しぶり。良子は心の中で言った。男達と話すときは声を使わずとも心の中で話すだけでいい。心の中での良子は饒舌だった。なかなか来てくださらないから忘れられたのかと思ったわ。そうそう、本当はね。20年ほど前に一度お見かけしたんですよ。電車の中で。
「そうかい。なら声をかけてくれればよかったのに」
 あたしはすぐに気が付いたんですよ。あっ園部さんだって。でも、あなたは連れの方と話すのに夢中でなかなか目の前にいるあたしに気付いてくださらなかった。そのうちに座席を立って電車を降りてしまった。悲しかったわ。
「そりゃあ悪かったね。でもいいだろう。こうやって君を探し出したんだから」
 園部は手すりに縛り付けられた良子の手を両手に包むとそっと口づけした。昔と同じ爽やかなコロンの匂いがした。
 ねえ。あなたと結婚してたら、あたしもっと幸せになれたかしら。
「そんなこと考えても空しいだけだよ。人生は一度きり。それ以外はすべて幻に過ぎない」
 そうか。良子はそのときに気付いた。あたしはこの生真面目な園部より、ひたすら自分を楽しませてくれる夫を選んだんだ。
「……あなたも……恋、なさいね」
 良子は玲香にそう言うと精一杯の力で笑いかけた。
「うん、わかった。いっぱいいっぱい恋するね」
「やくそく……」
「うん。約束」
 玲香は良子の小指に自分の指を絡ませてゆび切りげんまんを歌った。玲香の大きな目が涙で揺れていた。

 目を瞑って眠ったふりをすると、家族は黙って帰って行った。もう二度と会えないだろうと良子は思った。
 力をふりしぼって窓の方に首を回した。
 ああ。やっぱり海が見たかったなあ。
 そのとき夏の空がすいと翳り、ふいに黄昏になる。ありふれた黄昏。でも美しい。なぜか笑いが込み上げてきた。あたしこんな時に笑ってる。バカみたい。
 誰かが部屋に入ってくる気配がした。もう首をめぐらす力も残っていない。
「良子さん」
 男の低く優しい声が名を呼んだ。聞き覚えのない声だ。
「もう逢いたい人はいませんね。そろそろいいですか」
 そうか。あなたが男達を呼んでくれたのね。ねえ。最後に俊太郎を呼んでくださらない。ひとつ聞いておきたいことがあるの。あたし、あの子を傷つけるようなことを言ったみたいなんです。やっぱりそれを聞いてひと言詫びないと。
「残念ですが、それは出来ません」
 そんな。さっきまでここにいたんですよ。携帯電話で呼び戻してくださいよ。番号が分からなければ荷物の中にある電話を使ってくださいな。
「それは無理です」
 なんでそんな意地悪を言うのよ。そうか。バッテリーが切れてるのね。それなら充電器も一緒に入れてあります。それで……。 
「いえ。そういうことでは……。実は、さっきのご家族はあなたの妄想なのです」
 何をおっしゃってるの? 家族が妄想ですって。俊太郎も嫁の美佐子さん、それに孫の雄太と玲香も。そんなことあるはずない。まだ小指には玲香と指切りした感触がくっきりと残っているもの。
「俊太郎さんとご家族はあなたが入院してから一度も見舞いに来ていません。もちろん入院費は払ってくれているし、どなたも幸せに暮らしています。あなたはいつも言っていたでしょう。子どもには子どもの生活がある。それを第一に考えてね。それがあたしの幸せなんだから、と」
 だって、それは本音じゃない。
「分かっています。しかし、そう言ってくださったお陰で俊太郎さん達は幸せに暮らしているのです。大丈夫。たとえあなたに傷つけられたことがあったとしても、そんな傷、あなたがいなくなれば俊太郎さんの中からすっかり消えてしまいますよ」
 ほんとにそれでいいの?
「それでいいのです」
 ねえ、あなたは誰?
「僕ですか? あなたの恋人の1人……と言いたいところですが、もうお分かりでしょう?」
 ええ。うちの人はあなたが出て来る落語が大好きだったわ。ねえ。アジャラカモクレン、コロナウィルス、テケレッツノ、パと唱えて、ポンポンと2つ手を叩いたら、本当にいなくなる?
「意地悪言わないでください。ルールですからあなたのそばは離れますけど、その代わりあなたのご家族に取り憑くことになりますよ。それでもいいんですか?」
 あら。それは困るわ。仕方ないわね。このまま行きますよ。
「海はありませんけど、綺麗な黄昏じゃないですか。あの太陽が沈むとあなたの寿命も消えるんですよ」
 窓の外は黄昏が支配していた。見えるのはやはり倉庫の屋根と高圧線の鉄塔ばかりだった。
 良子はそのとき「ああそうか」と合点した。夫があのとき「アジャラカ」と言いかけて止めたのは、あたしにとばっちりが来ないようにと思ったからだったんだ。そうかそうか。あの人あたしのことを……。良子の目尻から涙がこぼれた。たまらなく夫に逢いたい。それにしても、死神だって神様の端くれなんだから、最後に海くらい見せてくれてもいいのに。ホント気が利かないんだから。
 良子がそう思った刹那、暮れなずんでいた夕日がふいに沈んだ。良子の傍らで死神が優しく呟いた。
「ほら、消えた」                        了

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