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千葉市空襲の証言集を読む [その他]

 千葉市空襲の証言集はこれまで以下の2冊発行されています。

「千葉市空襲の記録」(千葉市空襲を記録する会/1980.11.10/縦書き・ハードカバー) → 以下「記録」と略します。
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「千葉市大空襲とアジア・太平洋戦争の記録
100人の証言ーこの記憶をあなたに繋ぎたいー」(千葉市大空襲とアジア・太平洋戦争の記録100人の証言編集委員会/2009.11/横書き・ソフトカバー)
→以下「証言」と略します。
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 サイパン、グアムなどのマリアナ諸島の島々を奪還したアメリカは、それらの島に飛行場を建設してB29戦略爆撃機による日本本土空襲を開始しました。当初は東京など5大都市が目標でしたが、次第に地方の中小都市にも矛先が向けられるようになりました。千葉市への空襲もその1つです。
 「記録」には千葉市を目標とした3度の空襲について、それぞれ資料と証言がまとめられています。
 1回目の空襲は1945年、終戦の年の5月8日。3機のB29が先導してP51戦闘機※65機が千葉の沿岸にある工場や飛行場を襲いました。P51は「マスタング」という通称で呼ばれ、大きな予備燃料タンクを搭載して硫黄島からも補給なしで飛んでくることが出来ました。

※「艦載機」(空母から発進する戦闘機)つまりF6Fヘルキャットなどであるという説もあります。

 2回目は6月10日。日立航空機工場および蘇我の町、それに県立高等女学校、女子師範学校などが爆弾による空襲を受けました。これらの学校は日立工場から依頼され、校内でゼロ戦の垂直尾翼など作っていました。
 3回目は7月6日から7日朝にかけての主に焼夷弾による空襲。まずは千葉市街地の周辺を爆弾と焼夷弾で襲い、逃げ場をなくしてから、焼夷弾で町を焼き、機銃掃射で市民を殺傷しました。明らかに市民を狙った空襲でした。

 「記録」はこれら3回の千葉空襲について、克明な資料と証言(聞き書きと手記)を掲載しています。

 一方「証言」は上記の3度の千葉空襲について56名の証言を載せています。「記録」と重複しているものもあります。千葉空襲以外の戦争体験についての証言も掲載されています。
 「記録」が空襲の体験が中心であるのに対して、「証言」の方は当時の生活の様子やそれぞれの証言者の戦争(平和)への思いが加えられています。
 皆さん、本当は思い出したくない恐ろしく酷い出来事を、戦後35年を経て証言してくださっています。今、伝えておかなければ、また同じことが繰り返されるのではないか。そんな証言者の思いをなんとか次代に伝えたいものです。

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