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『天国までの百マイル』雑感 [その他]

12月1日の公演からもうすぐ1ヶ月が経とうとしています。劇団のブログに公演の写真やお客様からの感想などをまとめながら、自分がどうもまだ『天国までの百マイル』の呪縛から脱けていないような気持ちがしています。そこで少し公演への思いをまとめておこうと思います。

公演当日の打ち上げの際に演出の長野克弘さんから「縁」についてお話がありました。
長野さんと我々の劇団との縁は、代表の入村が長野さんが演出するお芝居を観に行ったことからはじまりました。そのときにつないだ縁は一昨年『カリホルニアホテル』の演出をお願いするという形でさらに太い縁になりました。そして今年の公演へとつながっています。

演出家としても人間としても魅力的な長野さんとこのような縁を持てたことは、私たち劇団員にとっても大きな財産になりました。役者としても少しは成長できたように感じています。

観客の皆さんの多くは毎年劇列車の公演を楽しみにしてくださっている常連の方です。私どもの公演はどんなに準備しても失敗があります。役者が台詞を忘れて立ち往生したり、舞台装置がうまく作動しなかったり、転換がスムーズに行かなかったり、挙げたらきりがありません。それに芝居自体が不評である場合もあります。毎年吟味して上演作品を選んでもお客様の心に届かない芝居もあります。ですが、お客様はどんな失敗があっても、たとえ芝居が面白くなくても、辛抱強く私たちを見守り励ましてくださいます。初めて劇列車の芝居を観た私の友人たちが口を揃えて言うのは「お客さんが温かいね」という感想です。失敗しても、嘲笑するのではなく温かな笑いを返してくれます。面白くなくても客出しのときに励ましてくださいます。こんなお客様たちとの縁こそ劇団のいちばんの財産だと改めて感じています。もちろん、それに甘えてはいけませんが(笑)

もう一つの縁はきわめて私の個人的なものです。
私が劇団に入って15年になります。当時同僚だった入村さんに、前年の『ゴジラ』(大橋泰彦)の客演を頼まれたのが縁でした。正直、忙しい仕事と演劇の両立には自信がありませんでした。無論、役者としての自信など少しもありません。ただ劇列車の団員のみんなと別れるのがなんとなく惜しくて入団しました。これも縁ですね。
当時、妻からは毎年のように「いつやめるの?」と尋ねられていました。もともと身体があまり丈夫ではない私が無理をしていることを心配してくれたのだと思います。

入団2年目に『父が帰る家』(木庭久美子)という作品を上演しました。数十年前に家を出た父親が病気になって家に帰るという物語です。これは私の父親と重なる話でした。どうしても観せたくて初めて両親を公演に招待しました。その後すぐに父親は認知症になり他界しました。

ところが、亡くしてからあれほど嫌っていた父親を赦せるようになりました。嫌いだと感じたことよりも父親とのちょっとしたふれあいやその言葉が心に色濃く蘇るようになりました。自身の子ども達が大きくなり父親としてもひとりの男としても価値を問われていたからかもしれません。自分が男として父親としてどうなのかと考えたとき、どうしても父親のすべてを否定することはできないのです。

そのことを自作『カリホルニアホテル』の主人公の父親に投影しました。どうしようもないダメ男だけど、何かしら哲学を持っていて誰からも愛される男。そして、偶然ですが私がその役を演じることになりました。難しい役でした。演じてみてはじめて父親の魅力に気付かされたような気がします。

『カリホルニアホテル』の前年には自作『クロスロード~運命をつなく四つ辻』を上演しました。お世話になった西田了先生から「四街道を舞台にした作品を書きなさい」と再三言われて、やっと出来た作品でした。西田先生の言葉がなければ、この作品は生まれていなかったと思います。『クロスロード』は、四街道の十字路でつながった人と人の縁の話です。西田先生との縁によって生まれた物語でした。公演当日の打ち上げの後、タクシーに乗る西田先生を見送りました。そのときに先生が「いつも傑作という訳にはいかないよ。それは覚えておきなさい」と言ってくださいました。そのときは気付きませんでしたが、暗に「クロスロード」を褒めてくださったのだと思います。そしてこれから脚本を書く私への励ましの言葉でもありました。残念ながら、このあと西田先生に公演を観ていただくことは叶いませんでした。お墓参りの際に奥様から「主人は亡くなる直前まで四街道を舞台とした作品を書くための資料を集めていたんですよ」というお話をうかがい、先生の劇作家としての執念を感じました。

母親は終戦当時14歳の女学生でした。都庁に勤めていた祖父だけを東京に残して一家は秋田の親戚のもとに疎開していました。退屈な疎開生活に飽き飽きした母は単身東京に戻ったそうです。そして、3月の東京大空襲に遭遇しました。母が語った話に出てくるB29のぶるんぶるんという音、焼夷弾のひゅーひゅーという落下音は今も私の心に深く刻まれています。私の中に根付いている母の話と千葉市空襲の多くの証言をもとに書いたのが「クロスロード」の2場です。そして来年6月に上演する千葉市民創作ミュージカル「千年天女」の2場もまた同じものを元に書きました。母の記憶がなければ、私はおそらく「クロスロード」も「千年天女」も書いていなかったと思います。そういう意味では千葉市民創作ミュージカルの仲間と遭えたのも母親がつないでくれた縁なのかもしれません。

そして、今年の公演『天国までの百マイル』とも不思議な縁がありました。

前半、主人公安男の母親きぬ江が入院している病院は三鷹にある大学病院がモデルです。実はこの病院で私の母も乳がんと肺がんの手術を受けました。さらに私と安男の年齢は全く同じでした。おそらく私の母親ときぬ江もほぼ同年代だと思います。
母親は昨年の秋に立川の病院で亡くなりました。主治医である女医から病状を聞いたとき、私はすぐに諦めてしまいました。30代で重い胃潰瘍の手術を受け、食の細い母はがりがりに痩せていました。父親の経営する会社が倒産してからは、居酒屋と麻雀荘をきりもりしていて睡眠時間もほとんど取れないような生活が続いていました。そんな母が長生きできるはずはない。87歳まで生きたのが奇蹟だと勝手に思っていました。
ですから、安男の奮闘を自分で演じながら、もっと母親のために出来たのではないかという自責の念に苛まれました。もちろん作品のテーマはダメ男である安男の再生にありますから、安男がしたことは必ずしも正解ではありません。命を懸けて息子のギャンブルに付き合ったきぬ江の母性、そして安男を無償の愛で支えたマリの母性、これらの母性にこそ焦点が当てられるべきです。でも、やはり安男になり切れなかった自分が悔しくてなりませんでした。

人は様々な縁によってつながっています。
昨日まで全く他人だった同士が、恋愛したり友達になったり仲間になったりします。親子兄弟のように切っても切れない縁もあれば、男女のようにあっけなく切れてしまう縁もある。人同士だけでなく地域、物との縁だってあります。もちろん作品との縁もあります。

世阿弥は能の作品を「花」に喩えました。長く苦しい旅路を経て峠にたどりついた旅人がふと、野辺に咲いている花に目を止めて憩う。そしてまた長い旅に発って行く。人の縁もまた長く苦しい人生の旅路でふと袖すり合うときに生まれるものだと思います。それは全くの偶然かもしれませんが、その偶然を縁ととらえて大切にしたいものです。

『天国までの百マイル』との縁は、母親のことも含めて長く私の心にとどまりそうです。なるべく早く『千年天女』や座・劇列車の次回作に集中したいのですが(笑)公演雑感
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