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ショートショート作品 『ドラゴンパレス』 [短編]

ショートショート作品 『ドラゴンパレス』

**あらすじ***

 ホームレスの島は四十年ぶりのクラス会で良子とその夫亀岡に再会した。亀岡はIT業界で大成功をおさめた大富豪だった。だが、なぜか島には亀岡という男の記憶がなかった。亀岡に「ドラゴンパレス」という高級クラブに連れて行かれた島はホステスの乙女に一目惚れしてしまう。その島に亀岡がある提案をした。


**本文***

 中央のテーブルで車椅子に乗ったかつての担任の山口がクラスのマドンナ阿部良子と談笑しているのが見えた。このクラス会は山口の古稀を祝うものだった。山口は少し前に脳梗塞をやって半身にまひが残ったという。剣道部の顧問で教室に竹刀を持ってきては、何か気に入らないことがあると振り回していた。そんな野蛮きわまりない担任が今では白髪の好々爺になっていた。無理もない。中学を卒業して四十年が経っていた。
 島光太郎は気の抜けたビールを口に運びながら周囲を見渡した。さっきから同じテーブルにいる連中の名札を盗み見ているのだが、そんな名前の人間がクラスにいたことすら思い出せない。どうやら連中同士も同じらしく、互いのことを探り探り話しているのが面白い。まるでみんなが浦島太郎か浦島花子になったようだ。
 クラス会の席次は担任の周りが上席だ。そのテーブルには学級委員だった福尾や剣道部の部長だった牧原などの姿が見える。みんなクラスのリーダーで成績もよかった。なのになぜか島は会場の端のテーブルだった。さっきからそれをずっと訝しく思っていた。クラス会というのは過去の自分と再会する場所である。どんなに歳を経てもここに来れば、中学校の頃の席次に座ることができる。俺はあのテーブルにいるべき人間なのにと島は思った。マドンナの阿部良子もまた女子のリーダーだった。学年でもトップの成績だった島がその中に加えられないのはおかしい。
「島ちゃん。久しぶり」
 良子が近くにやって来て声をかけた。当時と同じように、笑うと片えくぼが出来る。修学旅行前後の短い間、良子は島のものだった。旅行から帰った代休の日に良子は初めて島の家にやって来て二人は結ばれた。どちらも初めてだった。島は良子のようないい女と別れた理由を思い出せなかった。それをどうしても聞きたくて思い切ってここに来たのだ。
「ちょっと来て、旦那に紹介するから」
 ところが、良子に機先を制され中央のテーブルに連れて行かれた。島がテーブルに近づくと福尾と牧原の顔が緊張するのが分かった。二人とも立派な身なりをしていたからそれなりの地位に就いているだろうが、そんなことで中学時代の席次は変わらない。島は少し愉快な気分になった。それにしても二人のどちらかが良子の夫なのか。
「やあ、福尾。牧原も元気だったか」
 二人は「やあ。島ちゃん」と言ったが、顔はこわばっている。当時の力関係を快く思っていないにちがいない。
「おお。島か。お前とはずいぶん会ってないな」
 隣の男と話していた山口が赤い顔で振り返った。
「先生もお元気そうで何よりです。ご病気なさったそうですが、その後どうですか」
「こんなざまになっちまったよ。もう長くないだろうな」
「先生。またそんなこと言って。あなた先生にお酒勧めちゃだめだって言ったでしょ」
 良子が「あなた」と呼びかけたのは山口と話していた黒髪の紳士だった。クラスの男達が一様に肥えて、頭も禿げるか白髪になっている中でこの男だけは髪が真っ黒ですっきりした身体に高価そうなダークスーツを身につけていた。さて、こんな奴がクラスにいただろうか。どこかで見た顔ではあるのだが思い出せない。
「ごめんな。でも少しくらいなら大丈夫だと福尾教授のお許しが出たんだ」
 福尾は大学の医学部に進学して今ではその大学の教授になっていた。中学時代の成績は学年で四番か五番あたりをうろうろしていたはずだ。毎回トップ争いをしていた島には及ばない。それが大学の医学部教授様とは世の中はどうかしている。
「薬も服用してるからビールを少しくらいならなんてことないさ」
 福尾は真っ赤な顔をして良子に弁解した。
「命短し飲ませよ乙女ってな」
 牧原が福尾の肩を抱きながら言った。牧原はしばらく教育委員会にいたが、この春から進学校として有名な高校の校長になったと誰かから聞いたばかりだ。この男の席次はせいぜい五十番程度。それが校長とは笑わせる。
「この人が私のダーリン」
 良子がテーブルを回って担任の向こうにいるさっきの紳士に腕を絡めた。
「島君。久しぶり」
 声を聞けばと思ったが駄目だった。男は色白で涼しげな整った顔立ちをしている。顔も身体も引き締まっているのがスーツの上からでも分かった。身体つきはバスケットボールかバレーボールの選手を思わせた。だが話し方や身のこなしはエレガントで、島を圧倒するような品のあるオーラを纏っていた。そんな男がクラスにいたら島は激しい嫉妬心を抱いただろう。だが、そんな記憶はない。
「ああ。久しぶり」
 しばらく話せば思い出すだろうと島は思った。ここにいるからにはクラスメイトには違いないのだから。そう思って男と良子の近くに移動しようとしたとき、
「では皆様。席にお付きください」
 司会者の鈴木の声がした。鈴木は地元でラジオパーソナリティをしているらしい。慣れた司会ぶりだった。席を立っていた人々がゆっくりと自席に戻って行く。島も仕方なく自分のテーブルまで戻った。
「それでは、山口先生にクラスのマドンナ良子から花束と記念品を贈っていただきましょう。皆様盛大な拍手をお願いいたします」
 拍手の中、さきほどの男が車椅子を押して担任を金屏風の前に移動させた。良子が山口に花束を渡すとさらに盛大な拍手が起こった。司会者の鈴木が担任にマイクを渡す。
「皆さんありがとう。良子ありがとう。みんなが中学校を卒業して四十年。それぞれの分野で成功している姿を見るのが、今の私の唯一の楽しみです。ことにこの良子君の夫亀岡利一君は今ではリチャード亀岡という名でIT業界だけでなく世界を舞台に活躍している。正直言って、中学時代の亀岡君が将来こんなに活躍するとは私は思わなかった」
 会場に笑いが起こった。亀岡も別に不愉快そうではない。
「こういう嬉しい誤算が起こるから人生は面白い。今後の皆さんのご活躍をこれからも祈っております。今夜は本当にありがとう」
 また盛大な拍手が起こった。その拍手は車椅子の後ろに立つ亀岡と妻の良子にも贈られたものだった。しかし島は会場の隅のテーブルで拍手も忘れるほど驚いていた。あの亀がマドンナの良子を手に入れた。しかもIT業界の寵児として夙に有名なリチャード亀岡だなんて信じられなかったからだ。

 島は暗い公園の林を抜けて自分の小屋に入った。小屋と言ってもビニールシートと段ボールを組み合わせた粗末なものだ。スーツとネクタイ、ワイシャツ、それに靴を脱いで、いつものジャージ姿になった。脱いだ物は丁寧に畳んで、スマホと財布などの小物とまとめてサドの小屋に運んだ。もちろんタッパーに入った宴会の残り物を添えてだ。
「サドちゃん。ありがとさん。助かった」
 サドは毛布にくるまってノートパソコンを操作していた。この公園に住む五人のホームレスの中でサドだけがスマホやパソコンを持っていた。どちらも別れた妻が持たせてくれたものだそうだ。サドはそれらを使って子ども達と連絡を取っていた。妻としては子ども達の父親がホームレスだなどと知られたくないのだろう。スーツを持っているのも月に一度子どもたちと会う時のためだ。
「ああ。それでどうだったんすか。クラス会は」
 サドはパソコンの液晶画面から目を離さずに尋ねた。年齢は四十歳くらいだろうか。五人の仲間の中では一番若い。月に一度子どもたちと会うので髪もいつも短くしている。服装さえきちんとしていれば誰もホームレスとは思わないだろう。
「嫌な奴がたくさんいた」
「そりゃそうですよ。世間はここほど甘くないすから」
「ところでサドちゃん頼みがあるんだ」
 二次会のカラオケで島は良子の隣に坐った。当然だがその向こうには亀岡利一がいる。二人がどうして結婚したのか聞きたかった。中学生の頃、良子と亀岡は同じクラスにいても全く別世界に住んでいるも同然だったからだ。卒業するまでの間に数えるほどしか言葉を交わしたことはないに違いない。それとも島の知らないところで二人の交流があったのか。良子はなぜ島と別れて亀岡と結婚したのか。それが知りたかった。だが、カラオケの喧噪の中ではそれは叶わなかった。帰り際にかろうじて良子とメールアドレスを交換することが出来ただけだ。
「その良子って人からメールが来たら伝えればいいんすね」
「そうしてくれるかい。恩に着る」
「良子って島さんの昔のこれっすか」
 サドは初めて液晶から目を離して島に小指を突き出した。先週、ゴミを漁っていたところをコンビニの店員に見つかって殴られ前歯が一本欠けていた。それも別れた嫁さんに頼んで治してもらうようだ。嫁さんは歯科医だった。
「違うよ。サドちゃんなら知ってるだろ。リチャード亀岡って」
「当たり前っすよ。これでも昔はIT業界にいましたからね」
「良子はその亀岡の奥方なんだ。ついでに言うと亀岡も同級生さ」
 島は少し得意になっている自分に気付いて恥ずかしい気持ちになった。サドはそんな島の思いに気付かず、本心から驚いていた。
「それ、ほんとっすか。信じられねえ。あのリチャード亀岡と。へえ」
 サドは島と亀岡との格差を驚き、そして面白がっていた。
「悪かったな。同級生がホームレスで」
 島はサドに自分もホームレスであることを思い知らすようにそう言った。それが分かったのだろう。サドは首を竦めて、
「人間の運命なんて紙一重なんすね。きっと」
 と言いながらスマホを手にした。液晶が光が少し寂しそうなサドの顔を照らした。
「早速来てますよ」
 サドはスマホを島に渡した。良子のメールには、
(今日は久しぶりに会えて嬉しかった。ところで、亀岡があなたともう一度会いたいそうよ。どうする?)とあった。
「リチャード亀岡って奴。そんなに偉いのか」
 サドにスマホを返しながら島が尋ねた。
「少なくとも金は持ってますね。今じゃ世界的な大富豪っすよ。ほとんどタイムラグなしにどんな言語間でも翻訳してメッセージを送れるSNSを開発したんですよ。世界中の人がそのSNSを通じて友達になれるんです。すごいっすよ。世界を一つにしたんすから。そういう意味じゃ偉い人ですね。ノーベル平和賞の候補にも挙がったっていうし。もちろん俺にとっちゃ島さんへのリスペクトの方が強いですけどね。何しろここに住めるのは島さんのお陰なんすから」
 島たちがこの公園に流れて来たのは河川敷を追われたからだ。そしてたまたま公園の池に落ちて溺れている子ども島が助けた。その話が広まると地域の人は島たちが公園に住むことを黙認してくれた。時には差し入れまでしてくれるようになった。島たちも進んで公園のゴミ拾いをしたり、落ち葉の片付けを手伝ったりして少しでも長くこの公園に住めるように努力をしている。そして、いつの頃からか島がリーダーになり、他の四人はそれぞれサド、アマミ、ミヤコ、シキネと名乗るようになった。むろん、どれも島の名だ。
「それで返信はどうします」
 島は少し考えて、
「なあ。サドちゃん。またスーツやスマホを借りてもいいか」と言った。

 数日後の夜、島と亀岡はドラゴンパレスという「奥銀座」の高級クラブにいた。
 島の転落は祖父が起こした玩具会社を継いだところから始まった。浅草橋にあった小さな玩具問屋をいくつかのオリジナル玩具のヒットによって、大手の仲間入りをされたのは祖父だった。島の父親はそれを継いだもののゲーム機やソフトを毛嫌いしたために時代から取り残された。だが、祖父の代にヒットした商品は長い間世界の子どもたちに愛されていたから、それだけでも何とか生き残ることが出来た。決定的だったのは島がゲーム機やソフト開発に手を出したことだ。すでにゲーム機全盛期が終わっていることを島は理解できなかった。反対する重役たちを若い自分を馬鹿にしているのだと勘違いして追い出した。その挙げ句ロングセラーの玩具のライセンスまで手放す羽目になった。役員会で引導を渡された島の生活は荒れて妻とは離婚。逆転を狙い私財をつぎ込んで投資した会社が倒産し、家屋敷までも手放してついには自己破産。そして今はホームレス。これが島の人生である。
 社長の時にはもっぱら銀座で遊んだ。社長仲間から「奥銀座」の噂を聞いたことがある。だが、三次元から四次元から見えないように、この社会にはいくつかの次元がある。セレブ中のセレブだけが利用する遊び場。それが「奥銀座」であり他の階層からは巧妙に隠されている。ドラゴンバレスは「奥銀座」の中でも超一流のクラブなのだそうだ。
 案内された部屋でソファーに坐っていると、すぐに五人の女性達が入って来た。彼女達はよく訓練された小隊のように連携して亀岡と島を楽しませた。酒やフルーツを勧めるタイミングも会話の進め方も実に見事で、銀座を極めたつもりでいた島もその徹底したもてなしに舌を巻いた。そして、三十分ほど経つと彼女達をコントロールしている中心の女性がいることに気付いた。彼女は初めての客である島の嗜好を微妙に感じとって他の女性達を入れ替えていた。初めはバラバラだった女性のタイプがその頃には島の好みに統一されていた。せっかく好みの女性に囲まれた島だったが、次第に彼女達の隊長にばかり目がいくようになった。彼女も微妙にそれを感じのであろう。さりげなく島の隣にやって来た。
「君、名前は」
「乙女と言います」
 笑顔になると口の両側にえくぼが出来た。どことなく良子に似ていると島は思った。他の四人の女性達と比べると容姿の華やかさでは見劣りがした。それでいて一度気になると目が離せない存在感がある。
「君は……」
 島がそう言いかけた時、
「悪いがこれから大事な話があるんだ」
 亀岡が言うと乙女の目配せで女性達は潮が引くように部屋から消えた。島は乙女の後ろ姿を目で追った。
「良子がね。島ちゃんのことを心配しているんだ。怒らないで聞いてくれたまえよ。君のそばに寄ったときに臭ったと言うんだよ」
 その言葉を聞いた時、島は身が縮むような恥を感じた。それは自己破産した時さえ感じたことのない怖ろしいほどの恥だった。クラス会に出ると決めた島はまずアマミに相談した。アマミは元銀行員で公園の仲間の金を管理していたからだ。誰の金ということでもない。五人が何らかの収入を得ると必ずアマミに渡していた。そして必要がある時にはアマミに頼むのだ。その金を出すか出さないかはすべてアマミの判断である。リーダーの島にも強制は出来ない。
「中学のクラス会?」
 アマミは赤いニット帽の上から頭を掻きながら言った。次は脇の下。そして太もも。アマミは身体を掻くのが癖だ。しかもそのルーティーンは決まっていた。
「なら、まず銭湯に行けよ。俺らはまず臭いで嗅ぎ分けられるんだ」
 と言って会費の六千円だけでなく銭湯代や交通費、それに二次会の費用までも加えて持たせてくれた。銭湯で身体中が赤くなるほど垢をこすったつもりだった。しかし、微妙な臭いを良子に嗅ぎ分けられていたわけだ。
「良子から困っているなら助けてあげてほしいと言われた」
 亀岡は癖なのだろう。大ぶりな腕時計の表面を指でこすった。文字盤が光っているのはダイアモンドだろうか。
「だけど、それじゃあ。君のプライドを傷つけることになる。だから、一つ提案がある」
 もうとっくにプライドは傷付いていた。初恋の相手に一生懸命取り繕った仮面を引き剥がされ、その夫に同情され……だが、自分にプライドなどまだあったのか。傷つけられて初めてそのことに気付いた。亀岡の指はまだ時計のガラスを拭っていた。
「提案?」
「うちの会社が国際的なSNSを運営していることは知ってるか?」
「知ってる。どんな言語もたちまち翻訳してコミュニケーションが取れるそうだな」
「その結果、私のところには世界中の情報が入って来るようになった。中には研究の経済的な支援を求めるものもある。その中にタイムマシンがあった」
「はあ。タイムマシン」
 からかわれているのだと島は思った。真面目に話しを聞いていた自分を呪った。こいつは妻の良子が気遣った男をもて遊んで楽しんでいる。いや、もしかすると良子も一緒になってからかっているのかもしれない。島は拳を握りしめた。亀岡は島に近寄ってその拳をそっと掌で包んだ。
「私も信じられなかったよ。人間が時間を遡れるわけがない。だがな。身体は無理でも意識だけなら可能だと分かった。人の意識というのは我々が思っているよりも自由なんだ」
「馬鹿にするな」
 島は亀岡の手を振り払った。
「信じられないのも無理はないな。だが本当のことだ。我々は意識だけを過去に飛ばすことができるようになったんだ」
 亀岡は島の目を見据えてそう言った。島はその目に見覚えがあった。茶色い瞳がかすかに震えている。
「島ちゃん。もう一度中学時代に戻ってみないか。どうせ長くはいられない。たった一日だ。一日だけ君の意識は中学時代に戻る」
「お前の研究の実験台になれってことか。その報酬でもう一度勝負させてくれるとでも言うのか」
「いや。報酬は金でなくてもいい。私は良子と結婚して運気を手に入れた。今の成功はすべて良子のお陰と言ってもいい。もちろん今さら君に良子を譲るつもりはない。だが、もし君に欲しい女がいるなら……」
 不思議だが、その時の島の脳裏にはくっきりと乙女の顔が浮かんでいた。ほんの一時間ほど前に会ってほとんど言葉も交わしたことがない女性。それが島を再生させる女性なのか。
「それで何をすればいい」
 
 島は中学生だった。亀岡の言うとおり意識だけが中学時代に戻っていた。最初はただの夢かと思った。今は高層マンションが建っているが、もともと島の家族は中学校のすぐ近くの大きな屋敷に住んでいた。その家の二階のベッドで目覚めた。一瞬、その後の没落こそ悪夢だったのではないか思った。
 しかし、夢ではなかった。おそらく中学生の本当の島の意識は麻酔でも嗅がされて、意識の地下室にでも押し込められているのだろう。未来から来た島がその身体を完全に乗っ取っていた。島はすぐにパジャマと下着を脱ぎ捨てて鏡の前に立った。当たり前のように漲った下腹部、ドクドクと身体中をほとばしるように巡る熱い血を肌の下に感じることができた。このたぎるような力があれば何でも出来る、何にでもなれる気がした。
 制服に着替えて、まだ若い母の作った朝食を食べ、新聞を読んでいる父親と茶を飲んでいる祖父に「行って来ます」と言って家を出た。おそらく過去の島にとっては当たり前の日常が愛おしくてならなかった。
 中学校では記憶の中の阿部良子が新鮮な片えくぼで迎えてくれた。島が「おはよう」と挨拶すると、良子は顔を赤くして女子の群れに逃げ込んだ。どうしたんだろうと振り返ると黒板にチョークで書かれた日付が目に入った。その日は修学旅行の代休明けだった。つまり昨日、島と良子は初めて結ばれたのだ。
 窓側の一番後ろが島の席だった。その前が福尾、そして島の隣が牧原だ。良子の席は教卓の真ん前だった。良子は時折島を振り返って笑いかけ恥ずかしそうに急いで背を向ける。可愛いと島は思った。
「島ちゃん。亀、今日やるんだよね」
 学級委員で将来は教育者になる福尾が暗い声で囁いて来た。隣の牧原も椅子を引きずって島に近寄って来た。
「赦せないよな。良子にちょっかい出すなんて。転校生のくせに」
 教育者になる牧原の言葉とも思えなかった。その時、島は思い出した。そうだ。亀岡は修学旅行の直前に関西から転校して来たよそ者だった。
 担任の山口が教室に入って来て福尾が号令をかけた。山口はいきなり竹刀で教卓を叩き、修学旅行でのちょっとした遅刻や消灯破りについて説教を始めた。教室を恐怖が支配していた。島はあまりに懐かしくて笑みを浮かべてしまった。山口と目が合い、慌てて真顔に戻ったが遅かった。山口は狭い机間を乱暴に通って島の前に立った。
「コラッ! 島! 何を笑っとるか!」
 山口の竹刀が島の短い頭髪を掠めて背後の壁に当たって大きな音を立てた。島は立ち上がり直立不動で山口の目を見ながら、
「すみませんでした。先生のことを笑ったのではありません。許してください」
と大きな声で言った。その島の左頬を山口の分厚い平手が襲った。島は反動で飛ばされ牧原にのしかかる形で止まった。山口は黙って教壇に戻った。
 この日の一時間目は修学旅行の反省会だった。だが、山口は自分達で反省会をやって終わったら、会議録を持って来るようにと福尾に指示をして教室を出て行ってしまった。
 福尾は前に出て修学旅行の反省を発言するように促した。すかさず牧原が手を挙げ亀岡が班行動の時に別行動をして友人と会ったと告発した。それまで島は亀岡がどこに座っているか分からなかった。彼は教室の廊下側の先頭に小さく震えて座っていた。色白で影の薄い小柄な少年。将来の精悍な大富豪の片鱗はどこにもない。これでは記憶にないのも無理はないと思った。その時、良子が「はい」と手を挙げた。
「亀岡君はここに転校する前は京都にいたそうです。確かに別行動はよくないことですが、せっかく京都に帰ったのだから、昔の友人と会いたいと思ったのも無理はないと思います」
 女子の何人かが頷いた。
「でもさ。修学旅行は集団行動を学びに行くんだぜ。それを破るってのは重罪だよ」
 鈴木がよく通る声でそう発言すると多くの者が「そうだ。そうだ」と言った。ラジオのパーソナリティになるだけあって鈴木の声には説得力がある。
「今はこちらの人間なんだからさ。昔の友達より今の友達を大切にするべきだと思う。亀の行動は僕らを馬鹿にしてる」
 牧原が追い打ちをかけた。さらに大きく同意の声が上がった。
「山口に報告すると亀がどんなひどい目に遭うか分からない。ここは僕たちの中だけで解決しようぜ」
 福尾が提案した制裁は怖ろしいものだった。牧原たちが教室の後ろで亀岡を押さえ付け、クラス全員が1人ずつそこに行ってコンパスの針で亀岡の身体のどこかを刺すのだ。亀岡が叫ばないようにハンカチで猿轡をかませている。
「じゃあ。出席番号一番の人から」
 呼び出し役は書記の鈴木だった。出席番号の一番は阿部良子。だが、良子は机に座ったまま動かなかった。制服の背中がかすかに震えているように見える。
「良子早くしろよ」
 牧原が苛立って言った。さっき牧原が亀岡は良子にちょっかいを出したと言ったのを思い出した。あれは島の気持ちを考えて言ったのだと思っていたが、実はみんなのマドンナに近づこうとしたことに腹を立てたのかもしれない。そして、その中には交際をはじめた島への怒りも、それを許した良子への怒りも含まれているのではないか。
「こんなのおかしいと思わない?」と良子が振り向いて全員に言った。声が震えていた。目には涙があふれている。良子と目が合った。島はこのとき確信した。亀岡がこの時代に島を戻したのは実験のためではないと。島はこの後起こる事件の責任を問われているのだ。
「やめよう。くだらない」
 島は立ち上がって言った。教室中の目が島を見た。
「福尾、牧原。鈴木もやめるんだ」
 島は自分がどれくらい彼らに影響力を持っているか分からなかった。だが、個人の名を出して制した方が効果的だと思った。
「島ちゃん。これはクラスみんなで決めたことなんだ。あんたに言われてやめるようなことじゃない」
 福尾の声は低く冷静だった。
「あんた。良子としたんだってな」
 牧原が言った。良子の小さな悲鳴が聞こえた。牧原はいつになく暗い目をしている。男子たちが島を一斉に見た。嫉妬。怒り。
「それは亀のこととは関係ない」
「あんたが言い出したことだろう。亀が良子にちょっかい出してるから懲らしめてやれってな。それを今更なんだよ」
 福尾の声に怒気が含まれていた。そしてその怒気は福尾だけのものではない。牧原、鈴木だけではない。亀岡以外の男子が「良子とした」という牧原の言葉によって日頃抑え込んでいる獣を解き放った。そのすさまじい力で島を圧し始めていた。

 意識が未来に戻ったとき、島はシャツをめくってみた。コンパスで四十回刺された痛みがまだくっきりと残っていた。だが、傷跡はもうなかった。タイムマシンを使う前、島は妻の良子からホームレスになった亀岡を救ってくれと言われていたはずだ。だから、まずは「奥銀座」のドラゴンパレスに連れて行き乙女と会わせることにした。亀岡は当然ながら乙女を欲しいと思うだろう。そうしたらある提案をしてみようと、腕時計のガラスを指で撫でながら島は思っていた。 
                   おしまい

 *この作品は『浦島太郎』をモチーフにしています。 

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