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御朱印帳散歩21 (1) 姫路 [朱印帳]

8月5日(金)から3泊5日で姫路・津和野・萩を巡りました。

ちょうど台風5号が迷走中で台風との駆け引きのような旅になりました。

まずは姫路城
実は3時頃に姫路に着いたにもかかわらず、姫路神社を後回しにしたために御朱印をもらいそこねました。トホホの出だしです。今後行かれる方はまず姫路神社で御朱印をいただきましょう。午後4時までですよ。

↓ 駅前に姫路城の姿。テンションが上がります。



お城までは大通りを真っ直ぐ。徒歩で15分ほどです。どうせ途中は歩道からお城が見えないようになっているので、夏場は大通りの裏を沿って走っている商店街を歩くことをお勧めします。

↓ 姫路城の勇姿。どこからでも天守閣は美しい。




















タグ: 姫路 御朱印
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御朱印帳散歩20 根岸神社 [朱印帳]

6月11日(日)
今日は知り合いが出演する芝居を観るついでに、根岸神社を参拝することにしました。

空は曇っていましたけど、気温は暑くも寒くもなく散歩に最適です。電車の中や劇場は冷房で寒いことも予想されるので、上に羽織る物を用意して出かけました。




今日観るお芝居は京成本線新三河島駅近くの劇場キーノートシアターで上演されています。そこは客席数が100足らずの小さな劇場でした。劇団結成からまだ4回目の公演ということでしたけど、すべてにおいて丁寧に作り込まれていて、とても心を動かされました。単純な乙女の恋の話と思いきや、万華鏡の話、ネルソン・マンデラの言葉、はたまた相対性理論まで盛り込まれていて、約3時間があっという間でした。特にニューハーフの歌姫フィリーがすごかった。この歳になって乙女の失恋話で泣かされるなんて思いもしませんでした。もちろん、私の知り合いも頑張っていました。プロになったばかりなので、これからも応援したいと思います。

観劇の後、京成本線で日暮里駅に出ました。出口は西口です。↓



坂を上がると↓



有名な夕焼けだんだん



谷中ぎんざ





谷中ぎんざの狭い道にたくさんの人があふれていました。メンチカツを買って歩きながら食べました。

突き当たりを左折します。人影が急に少なくなって不安になります。普通の住宅地の中を蛇行した道がしばらく続きます。

道の左側は谷中、右側は千駄木 ↓



千駄木駅近くを過ぎると、歯医者の大きな看板があって、その先を右折します。真っ直ぐ商店街の中を進むと、交差点の向こうに……。↓



この坂を上がると、右手に根岸神社の鳥居が現れます。↓











楼門随身門(ずいじんもん)です。↓



参道から向かって左の随身「かどのもり」↓



あとで知ったのですが、右手の随身のモデルは水戸光圀公だそうです。そっちを撮影すべきだった。

神楽の舞台



手水場





社殿





御朱印



乙女稲荷神社









ミニ伏見稲荷みたいです。鳥居が低いので、私の背丈171センチでも、少し屈まないと頭をぶつけます。

徳川家宣の胞衣塚(えなづか)





乙女稲荷神社の鳥居の切れ目にありました。散歩をしているとこういう意外な物にぶつかるので楽しい。
「胞衣」(えな・いな)とは、分娩の際に排出される胎盤などの総称です。家宣の胞衣がこの石の下に埋められてるんですね。

乙女稲荷神社本殿



本殿前に小さな舞台のような場所がありました。そこから望む根岸神社本殿。↓



さらに進むとこんなものが……。↓





近隣にあった庚申塔をまとめたのだそうです。
庚申塔は庚申塚ともいいます。先日散歩に行った巣鴨にもありました。

「庚申」は暦の「かのえさる」の日のことです。中国の道教では人間の体内に「三 尸(さんし) 」という虫がいて、60日に一度の庚申の日に宿主が眠ると、天帝に宿主の罪悪を報告に行くと信じられていたそうです。それを防ぐために皆で一緒に夜明かしをすることを、平安時代は「庚申待ち」江戸時代は「庚申講」と呼びました。
庚申塔はこの庚申講が3年18回続いたことを記念して作られる物が多いようです。

上の庚申塔に彫られているのは「青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)」です。この像は仏教で 三 尸を押さえると言われているので、庚申塔の意匠によく使われるとか。
下はご存知「三猿」です。庚申の「申」が干支の「さる」であることから、その連想で意匠に使われたようです。
神道の猿田彦神も意匠として使われるそうです。
江戸時代、関東を中心に数多く作られた庚申塔ですが、明治になってからは迷信と言われて壊されたり、こんな風に一カ所にまとめられたりしたといいます。

こんなものも……。





塞の大神(さえのおおかみ)の碑だそうです。「塞の神」は村の境などにあって、悪鬼悪疫の侵入を防ぐ神です。

さらに奥に行くと、もう一つの稲荷社。

駒込稲荷神社







最後に根津神社の裏側もチェックします。裏参りが出来るかもしれません。残念。ここは出来ないようです。

帰って来てから知ったのですが、漱石や鴎外が小説の構想を練ったという「文豪の石」とか「鴎外の石」(本名の森林太郎名で寄贈した石)とかもあったのですね。まあ、こういう見落としも散歩にはつきものです。

千代田線の根岸駅が近いので、そこから電車を乗り継いで帰りました。

以上、根岸神社御朱印散歩でした。

読んでいただき、ありがとうございました。御朱印帳を持って散歩に行きましょう。

御朱印帳散歩19 巣鴨 [朱印帳]

今日6月3日(日)の散歩は巣鴨です。

池袋の芸術劇場に『パレード』というミュージカルを観に行った帰りだったので、16:00という遅いスタートになりました。余談ですが、私たち夫婦は堀内敬子さんの四季時代からのファンです。『パレード』の堀内さん良かったです。歌もたくさんあって本領発揮でした。プログラムの対談でのボケもサイコーに笑いました。やっぱり好きだなあ。

閑話休題。



巣鴨地蔵通商店街

初めての巣鴨です。JR巣鴨駅から、この有名な商店街まで広い道路の歩道(実は旧中山道)を少し歩きます。アーケードになっていて、これなら雨の日も安心。今日は晴れてますけどね。



↑ 最近は中高年だけでなく、若者も増えたと聞いていましたけど、やはり主流は中高年ですね。若者向けの店はほとんどないし。赤い下着の店が何店舗もありました。

高岩寺(とげぬき地蔵尊)







御朱印



中年の女性たちが「御影」という小さな紙片を買っていました。100円だそうです。女性のおひとりが「妊娠したときに、これを母さんに飲まされたのよ」と話していらっしゃいました。お地蔵様の御影が、それを飲んだ人を災いから守ってくれるのだそうです。

「とげ」って「針」のことなんですね。「御影」を呑むことで、誤って呑んでしまった針を抜いた話が「とげぬき地蔵」の由来だと書かれていました。

商店街をしばらく進むと、猿田彦を祀った祠がありました。庚申塚跡だそうです。この場所に江戸時代は茶店があったとか。中山道を往来する旅人が、とげぬき地蔵尊をお参りしようと立ち寄ったのでしょうか。







その角を右折して真っ直ぐ進み、大通り(中山道)を渡ると、お寺(お墓)の多い地区に入ります。「お岩通り」というのは『四谷怪談』のモデルになった女性の墓(妙行寺)がこの先にあるからだそうです。四谷から移転してきたとか。

↓ お岩通り



この道をしばらく歩くと本妙寺が左に見えてきます。

本妙寺







剣豪 千葉周作のお墓(本妙寺内)



千葉の人間としては、千葉出身の北辰一刀流創始者千葉周作の墓に詣でないわけにはいきません。

遠山の金さんこと、遠山金四郎景元が建てた遠山家の墓(本妙寺内)



「この桜吹雪を見忘れたとは言わせねえぜ」の遠山の金さんは実在の人物なんですね。片岡千恵蔵の映画『いれずみ判官』も杉良太郎の『遠山の金さん』もよく観ました。大好きな時代劇のシリーズです。

明暦の大火の供養塔(本妙寺内)



明暦の大火は振袖火事とも言われる江戸時代を代表する大火災です。明暦3年(1957年)の1月8日(現在の3月2日)の午後に当時本郷にあったこの本妙寺から出火しました。この火が消えかかった頃に別の場所から火が出て、さらに翌日にもまた新たな場所で火事が起こりました。江戸のほとんどを焼き尽くし、死者は10万人を超えた大災害でした。その多くは火に追われ大川(隅田川)に飛び込んだ人々で、溺死、あるいは凍死しました。

この火事の死者を弔うために回向院(えこういん)が建立され、やがてそこで勧進相撲が行われるようになります。また、千住大橋しかなかった大川に新しく橋が架けられました。橋の両側には広小路と呼ばれる火除け地が作られ、避難場所として大名家の下屋敷が作られたりと、江戸の町に様々な変化がもたらされました。そうそう、人形町にあった吉原(元吉原)も全焼し、浅草寺裏(新吉原)に場所を移すことになったのもこの火事がきっかけです。

寺を出て同じ道を真っ直ぐ進むと左側に広い墓地があるところにやってきます。

染井霊園です。

染井霊園の敷地に沿って左におれると慈眼寺(じげんじ)という寺院が左手に現れます。

慈眼寺



ここは芥川龍之介が眠る寺です。

寺門を入って、左手が墓地です。墓地の門を過ぎると、こんな案内板がありました。



左右に墓石の並ぶ細い道を直進すると、まずは左手に谷崎家の墓があります。

谷崎潤一郎の遺骨が分骨されて納められているそうです。



表示に従って左に曲がると、芥川龍之介のお墓がありました。





さすがに墓にはお洒落な花が一輪手向けられ、煙草やワインなどの供物もありました。日々詣でる人がいるのでしょう。さすが文学界の大スターですね。

「ずいぶん大きな墓石だな」と思って眺めていると、横から妻が「愛用の座布団の大きさなんだって」と教えてくれました。上から見ると、まさに座布団です。お洒落ですね。



来月24日の河童忌にはこの狭い墓地に多くの人がお参りに来ることでしょう。でも、そんな龍之介の墓のまわりには、白いプレートが置かれた墓石が目立ちます。プレートには「このお墓の関係者の方は寺務所に寄ってください」と書かれています。兼好法師が『徒然草』に「去るもの日々に疎し」と記したように、故人を偲ぶ人がいなくなれば墓も忘れられて、その人が存在していたことさえ忘れ去られてしまうのですね。無常ですね。生きている間が花ってことですね。

慈眼寺の門をでると、目の前が染井霊園の入口です。坂を上がると案内板があり、さらに直進すると文人をはじめ著名人の墓所の位置を詳しく記した案内板がありました。

日が傾いて来ていたので、二葉亭四迷と高村光太郎・智恵子夫妻のお墓に絞って詣でることにしました。

ところが、巣鴨駅方面に向かう途中にあるはずの二葉亭四迷の墓石が見つかりません。案内板にあった場所を過ぎても何の表示もないのです。数十メートル坂を下ったところに、また詳しい案内板があったのでもう一度確認します。妻に「ここで待ってて」と告げて戻ってみますが、やはりありません。何度か行ったり来たりした末に「ここみたい」と妻が指さしたところにあったのが↓



表示がなぜか倒されていました。

二葉亭四迷のお墓



当たり前ですけど、本名長谷川辰之助が真ん中に大きく彫られていて、その右脇に控えめに二葉亭四迷とあります。

言文一致の小説『浮雲』で知られる四迷のペンネームは、作家になりたいと打ち明けた時に父親に言われた「くたばってしめえ」に由来するとか。これもまたお洒落ですね。

と書きましたが、これは俗説で本当は処女作『浮雲』を卑下する気持ちや、坪内逍遥の世話でやっと世に出ることができた自分を罵って吐いた言葉が「くたばってしめえ」だったのだそうです。
文学史に名が残る作家でも色々な思いがあったんですね。

↑ この表示の奥に四迷の墓があります。見つからない自分を「くたばってしめえ」と罵らずに済むように。 念のため。 さて、今日の散歩の最後は高村光太郎・智恵子夫妻、そして光太郎の父親光雲が眠る高村家のお墓です。四迷の墓よりさらに巣鴨駅に近い、染井霊園の入口付近にあります。 ↓ 墓石の脇の石版に彫られた歌。 私は『智恵子抄』を愛読して、『レモン哀歌』や『樹下の二人』を暗誦するような中学生でした。それに絵を描いていたこともあって、光太郎の愛した彫刻家ロダンにも憧れていました。60歳になって初めて詣でました。 高村光雲は、万国博覧会に出品した『老猿』、皇居前の『楠木正成像』、そして上野公園の『西郷隆盛像』などの名作を残した彫刻家です。でも、長男の光太郎とは不仲だったようです。偉大な父を持つと大変ですね。 光太郎と智恵子のことは『智恵子抄』で知られています。特に精神を病んだ妻への思いを綴った詩は、今読んでも胸を打ちます。 智恵子は自身も画家を志していました。でも、光太郎との結婚によって、貧困の中、芸術家としての夫を支えなければなりませんでした。それが精神を病んだ理由とも言われています。 『智恵子抄』はドラマ化されて、私も子供の頃見ていました。「♪東京の空灰色の空、ほんとの空が見たいという♪」という主題歌を今も覚えています。この歌のベースになった『あどけない話』という詩だけは今も完全に暗誦できます。 戦時中、光太郎は戦争を賛美する詩を書きました。そのために、戦後は自身を恥じて山に籠もって晩年を過ごしたそうです。 このお墓のすぐ先に出口があります。すぐ前の道を進むと、巣鴨駅前の大通り(旧中山道)に出ます。すぐ先(左)が駅です。 昔からファンだった芥川龍之介や高村光太郎のお墓参りが出来ました。とてもいい散歩でした。それにしても、次来るときはちゃんと線香くらい持って来よう。 読んでいただき、ありがとうございました。あなたも御朱印帳を持って散歩に行きましょう。

御朱印帳散歩 番外編 人形町玉ひで [朱印帳]

御朱印帳散歩と切っても切れないのが食べることです。

今日は人形町「玉ひで」についてレポートします。

↓ 甘酒横町交差点から見た「玉ひで」の看板。この奥に入口があります。



↓ 入口付近。「トリスキ」とあります。





私たちが店の前の並んだのは正午を少し回った頃でした。昼は11:30~13:30です。10人ほどの行列だったので、すぐに順番が来るだろうと高を括っていました。ところが、店を出て行く客はいるのに行列はなかなか進まない。とても日差しの強い日でしたので、日傘を差してもなかなかしのげません。

出入口にメニューが出ていて、元祖親子丼1500円、三昧親子丼1900円、白レバ親子丼2000円、極(きわみ)親子丼2200円(売り切れ)とあります。驚いたのは、その上に親子丼コース3300円とあって「並ばずにお入りください」と表示されていたことです。内容としては元祖親子丼にスープや果物が付いた程度のコースです。10%のサービス料も取られるので、ちょっと割高ですが、お年寄りがいたり体調が悪かったりで並びたくない人にはありがたいメニューですね。コースは食べる場所も1階のテーブル席のみだそうです。

そろそろ妻が限界というところで、やっと順番が来ました。

中に入ると、まずは下足を預けて下足札をもらいます。さらに一階の廊下でしばらく待たされます。待ちながら親子丼を注文して代金を払います。

少しすると3組ずつ2階に通されます。2階の和室には、以前2回夕食のコースを予約して来店した時に通されたことがあります。その日通されたのはテーブルの部屋で6人掛け。私たち夫婦と女性の2人組、そして1人で来店した女性の相席でした。とにかく小部屋に3組の相席って気まずい。私は三昧親子丼を頼んだのですが、とうとう普通の親子丼との区別がつかないまま食べ終わりました。でも、卵はトロトロ、トリは歯ごたえ十分、付け合わせの漬け物がピリ辛で、親子丼の甘味とよくあいます。並んだ甲斐はありました。





読んでいただき、ありがとうございました。あなたも御朱印帳を持って散歩に行きましょう。

御朱印帳散歩18 人形町(水天宮) [朱印帳]

人形町の水天宮に行きました。



東京メトロ半蔵門線の5番出口の階段を上がり、地上に出たら左手に進みます。

最初の交差点(すぐ近く)を左折すると、もう水天宮の社殿が塀の上に見えます。歩道の右側は街路樹、左側は屋根のある歩道。雨の日も、この日のように強い日差しの日も参拝者に優しい参道です。

参道から見上げた水天宮社殿↓



参道を進むと左側に階段がありますが、本来の入口(正門)はその先を左折したところにあります。2つ階段は途中で合流しているので、どちらから入っても同じです。

↓ 正門



正門の階段途中には左右に随身が控えています。これを随身門(ずいじんもん)と呼ぶそうです。「随身」というのは平安時代、貴族が外出する際に付き従った従者(今でいうSP)のこと。この門は神田明神にもありますけど、こちらは随神門と書くみたいです。↓



日本橋水天宮は久留米水天宮の分社。
最初は久留米藩藩主有馬氏が江戸の上屋敷内に祀っていたものでした。それをある時から毎月5のつく日には誰でも参拝できるようにしました。そのことから久留米藩主は「情け有馬の水天宮」と江戸庶民にもてはやされ、一方参拝者からの賽銭は藩にとって苦しい財政を建て直すための財源になったそうです。

祭神は、天御中主神 (アメノミナカヌシノカミ) ・安徳天皇・高倉平中宮(建礼門院、平徳子)・二位の尼(平時子)です。

もともとは、高倉平中宮に仕えた伊勢という女官が壇ノ浦で生き残り、安徳帝と平家一門の霊を慰めるための祠を建てたのが始まりだそうです。水天宮は元の名を「尼御前神社」といいました。

平将門を祀る神田明神社といい、この水天宮といい、江戸っ子はほんとうに判官贔屓ですね。湯島天神もそうだ。

寳生辨財天(ほうしょうべんざいてん)



弁天様です。これも久留米藩上屋敷にあったものだそうです。

本殿



子宝犬



本殿にお参りしてから、御朱印をもらいに3階建ての社務所に向かいます。行列ができていたので警備員さんに尋ねたところ「御朱印の人はこちらから入って3階に行ってください」と、列の出来ている入口ではなく、社務所の出口の方を示されます。列に並ばなくていいことに少しほっとして3階(本殿は2階)に上がると、「今の時間は2階神札所でお願いします」と書かれていたので、2階に下りて神札所前に並ぶと「こちらは列に並んでください」と結局長い列の後ろに並ぶことになりました。

この程度の間違いはよくあるので驚きませんが、もう少し分かりやすい表示をお願いしたいものです。折しも大安吉日ということもあり、赤ちゃん連れのお礼参り、お宮参りの参拝客が多くて、御朱印のために並ぶのはちょっと後ろめたい。
後で思うと並ばずに帰るのが最善だったかな。

御朱印(上が水天宮、下は弁財天)





せっかく人形町に来たので、大観音寺(おおかんのんじ)にもお参りしました。水天宮から歩いて行くと、人形町の交差点の2本手前の左手路地にあります。



↓ 御本尊は鉄製の観音様です。

[

↓ 願いが叶う地蔵尊。



この他にも馬頭観音、韋駄天などがお祀りしてあります。

大観音寺の御朱印 
  (上が聖観世音、下が本願地蔵尊)





人形町にやって来たのは、東京の端で独り暮らす母を訪ねるついでだったのですが、今書いている小説の取材も兼ねていました。

短編小説の結末部を元吉原を舞台にしようと発想したものの、なかなか資料だけではイメージが湧きません。あまりに暑いので、妻は喫茶店で待たせて、私ひとりで元吉原があったであろう辺りを歩き回ってみました。

島原を歩いた時も感じましたが、意外に狭いことに驚きます。こんな場所に閉じ込められた遊女たちの閉塞感はいかばかりだったでしょう。かと言って、外に出れば日々の食事にも事欠く境遇の女性たちです。中も地獄、外も地獄。宝井其角の「闇の夜は吉原ばかり月夜かな」を思い出します。この句はどこで切るかによって、「闇の夜も、吉原だけは月夜のように明るい不夜城である」という意味にも「月夜なのに吉原だけは闇夜のようだ」という意味にも
とれるトリッキーな句です。

人形町をブラついているうちに、いくつかの稲荷社を見つけました。

正一位橘稲荷神社



江戸時代、この周辺を「玄冶店(げんやだな)」という俗称で呼んでいたそうです。将軍家御典医の岡本玄冶という人が住んでいたからです。ある時、玄冶は江戸城内にあった稲荷社を賜り、この辺りにお祀りしたとか。何かの褒美なんでしょうが、稲荷社を下賜するなんてこともあったんですね。びっくりです。

富澤稲荷神社





富澤稲荷の中にある初姫稲荷神社



富澤町にある稲荷社です。戦後3つの町の稲荷社を合祀してできた神社だそうです。初姫稲荷社だけが合祀されずに狭い境内に独立しているのか不思議。どういう由来の神社か謎です。

笠森稲荷神社




↓ 笠森稲荷のなかにいるキツネたち。



江戸の町は「江戸名物、伊勢屋、稲荷に犬の糞」と落語の枕に言われるほど、稲荷社多かったそうです。『江戸名所図会』(1834年)には183もの稲荷社が記録されているといいます。

新吉原には廓の四隅に稲荷社があり、遊女たちの信仰の対象になっていました。有名な九郎助稲荷もその一つで、元吉原から移転されたものです。 それらの稲荷さんは今も吉原神社に合祀されて残っています。

稲荷社は商売繁盛の神様ですが、火除けや病気治癒にも効験があると信じられていました。吉原の遊女たちが怖れていた病気は梅毒です。通称を「瘡」といいました。「瘡」と「笠」が同音であることから、特に笠森稲荷を頼る遊女が多かったそうです。元吉原の跡近くに笠森稲荷があるのもそのためでしょう。そう思って見ると、上のキツネたちの姿も遊女たちの悲哀を映しているように見えないでしょうか。

笠森稲荷神社の御朱印です。





読んでいただきありがとうございました。あなたも御朱印帳を持って散歩に行きましょう。

御朱印帳散歩17 太宰府天満宮 [朱印帳]

3月12日(日)
昨日従兄弟の結婚式が博多の天神であったので、今日は太宰府天満宮に行ってみました。

式場もホテルも警固神社の真ん前だったので、当然お参りしてからと考えていましたが、少し朝寝坊をしてしまい、泣く泣く太宰府天満宮に直行することにしました。鳥居の前で柏手を打って、急いですぐ脇の西鉄天神駅に入ります。

↓ 西鉄天神駅ホーム





本来は大牟田行きの特急に乗り、二日市で乗り換えるのが速いようです。けれども、これも3分差で乗り遅れました。。仕方なく9時16分の小郡行き急行に乗ります。20分で二日市に着く予定でしたけど、少し遅れて37分着。太宰府線が38分発予定なので慌てました。しかし、ここで降りる乗客はみんな太宰府に行くので、太宰府行きも9時40分発に変更されていました。よかった。

↓ 西鉄太宰府駅到着



太宰府駅を出ると、すぐ右手が参道です。参道にはたくさんの梅ヶ枝餅屋が並んでいます。鳥居をいくつかくぐります。





↓ 有名なスタバ。写真を撮っている人がたくさんいました。

「建築家 隈研吾氏により『自然素材による伝統と現代の融合』というコンセプトをもとに設計されました」(HPより)ものだそうです。



↓ 石の鳥居



↓ 石の鳥居の前には牛の像



菅原道真公の遺骸を乗せた車を挽く牛が、この場所で動かなくなったので、この場所に天満宮が造られたという逸話から、牛の像が天神様にはつきものです。それにしても大人気。並んで写真を撮っていました。

↓ 石の鳥居の継ぎ目には1円玉がこんな風に



↓ 赤い橋が並んでいます。間にはそれぞれ末社があります





↓ 橋から見た池



↓ 門をくぐると……





↓ 本殿が見えてきます







お参りしてから御朱印をいただきました。ちょうど今までの朱印帳の面が一杯でしたので、新しい朱印帳もいただきました。とても上品な女性が美しい字で書いてくださいました。

↓ 御朱印帳と御朱印





はじめの2面は伊勢神宮の外宮内宮のために開けておくのだそうです。昨年参拝したばかりですが「もう一度来なさい」という天照大神様のお告げかもしれません。

↓ 「飛梅」





京から太宰府まで主人を追いかけて飛んできた梅の木です。事実かどうかより、そう考えた人の心ばえに感動を覚えます。

「東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花主(あるじ)なしとて春な忘れそ」という歌は、讒言(ざんげん)によって太宰府に左遷された菅原道真公が詠んだものです。「春風が吹いたならば(春を)美しく咲くのだぞ。我が家の梅の花よ。主人の私がいないからといって春を忘れてはいけないよ」という思いに梅の木が答えて後を追ってきたなんて素敵ですよね。こういうことを考えついた人が素敵です。



↓ 本殿の前には紅梅もあります。こちらはまだ花がたくさん残っていました





↓ 本殿を横手に抜けたとこには立派な大楠



本当に立派な木です。パワーをいただきました。

↓ 本殿を出て宝物館に寄りました。
展示物はそれほど多くありません。太宰府天満宮に関係した武将が発行した文書、村正、正宗などの刀剣、長州征伐のあと福岡藩お預かりとなった三条実美卿の甲冑などが展示されています。入館料は400円。

↓ 本殿脇の梅の道



↓ 境内には様々な種類の梅の木があって、誰でもお気に入りの一本があるようです。私のお気に入りの白梅はこれ。





参道には「梅ヶ枝餅」の店がたくさん並んでいます。人気No.1の「かさの家」は行列ができていました。「かさの家」さんのはつい最近物産展で買って食べたばかりなので、他の2つ店のを買ってみることにしました。

一軒目は松尾商店さん。隣に和菓子屋さんの店舗があるので、菓子作りの技が生かされているのではないかと期待しました。それにおばあちゃんたちが作っているのが気に入りました。画像はありません。夢中で食べてしまいました。もちろん期待通りでした。ほんのわずかですが梅の香りを感じたのは気のせいかな。

↓ 松屋さんの「梅ヶ枝餅」。駅に一番近い店です。出来立てだったので熱い。少し皮が厚くて、表面がカリカリ、中はモチモチ。アンコも美味しかった。店によって微妙に違うのがいいですね。



日曜日ということもあり、とにかく混んでいました。写真を見るとそこここに蛍光グリーンの上着の人が写っています。外国の団体旅行客の皆さんなのですが、先導するガイドさんが番号の書かれたプラカードを掲げて次から次へとやってきます。観光に来てくれるのは嬉しいことです。ただ、揃いの上着はともかくその色には疑問があります。神聖な場の雰囲気や景観を壊すような色を選ぶのはどうでしょうか。

かつて日本の高度経済成長期、日本人の団体客がヨーロッパで嫌われていたこと思い出します。まず人が、そして次は企業が進出してきます。外国人のマナーうんぬんより、今後の外国企業の進行の方が心配ですね。すでに分野によってははじまってますけど。

閑話休題。

新幹線に乗る予定なので、帰りも西鉄天神駅経由で博多駅に出ました。私たちにはこのルートがわかりやすかったからです。

太宰府駅前に博多駅行きのバスもありました。空港にも行くようです。行列ができていました。

↓ 帰りの列車。旅人(たびと)







この列車で二日市駅に行き、西鉄福岡天神行き急行に乗り換えて、西鉄天神駅からJR天神駅まで地下道を歩きました。結局40分ぐらいかかりました。急行でなく特急に乗るともっと時間短縮できるようです。

↓ 念願のモツ鍋



昨夜は披露宴の食事で満腹だったので、一風堂のラーメンを食べました。これは馬刺もついた定食。これで満足して帰れます。



1690円也。ごちそうさまでした。

読んでいただき、ありがとうございました。あなたも御朱印帳を持って散歩に行きましょう。
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御朱印帳散歩 16 熱田神宮 [朱印帳]

熱田神宮に参拝しました。

  以下、赤い文字は神様に関する事項、青い文字は施設に関する事項、ピンクはその他の事項です。

本宮



前日、金山(かなやま)駅近くのホテルに泊まったので、この朝は金山駅から出発です。

金山駅はJR、名鉄、そして地下鉄が混在するハブ駅です。



名鉄で1つめが神宮前駅

熱田神宮方面に駅を降りると、道路を隔てた目の前が「熱田の杜(もり)」です。

道路を渡って敷地内に入ると、右手が神宮会館(結婚式場)と社務所、左手が駐車場です。当然のように右手に進んだのですが、実はこの道を行くと鳥居をくぐれません。手水場もありません。いきなり神域に踏み込むことになります。まあ、それでもかまわない人はいいのですが、手順にこだわる方は左手の駐車場を突っ切って東門(鳥居)をくぐり、参道に廻ることをお勧めします。

↓ 右手にこんな門があったので、ついつい行ってしまった。



↓ 梅も咲いていて、気持ちのいい道ではあるのですが……。



……この道は本宮の隣にある神楽殿に出てしまいます。鳥居もくぐらず手も洗っていないので、仕方なく本宮を横目に見て参道を戻ります。

↓ 参道を戻り、二つ目の鳥居のところに大きな手水場がありました。大楠(大きなクスノキ)が目印です。



身を清め、また参道を戻ります。

↓ 再び本宮が近付いてきます。





本宮には熱田大神(あつたのおおかみ)が祀られています。この神様の正体は実は天照大神様です。それが三種の神器である「草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)」と結びつくと熱田大神となるそうです。

「草薙神剣」は日本武尊(やまとたけるのみこと)が妃である宮簀媛命(みやすひめのみこと)に託し、その後熱田の地に祀られました。それが熱田神宮の始まりだそうです。

本宮は伊勢神宮ほどはいかめしくありません。伊勢内宮の本宮はたくさんの巨木に囲まれ、社殿前の階段も段数が多い。それと比べると熱田神宮の本宮は気軽にお参りできる感じがします。季節の違いもあるのでしょうが、夏に行った伊勢では「御帳(みとばり)」(本宮前に垂れた布)が少しも動かず、近寄りがたさを感じたのですが、こちらはもっと気安く「よく来たね」と御帳を風で揺らして歓迎してくれました。

御朱印は本宮脇の授与所でいただけます。「初穂料はお気持ちで」と表示されていて、朱印帳を出す時に折敷(おしき)に入れるようになっています。妻と私は500円ずつを納めましたが、千円札もたくさん入っていました。

↓ 熱田神宮の御朱印



お神籤(みくじ)も人気でした。200円を納め、自分で入れ物を振って、出てきた番号を告げます。

↓ 長男と妻は末吉。私は中吉でした。



↓ 本宮に向かって左脇に細い道があります。



この道は「こころの小径」と名付けられています。この小道の奥には 熱田大神の「荒魂(あらみたま)」が祀られています。

本宮にまつられていらっしゃるのは、お礼や感謝を受ける神様の半分「和魂(にぎみたま)」、そしてもう半分が「荒魂」です。 「荒魂」は神様の活動的な一面なので、お願いごとも聞いてくださるといいます。お伊勢参りで勉強しました。

余談ですが、かつて「細胞」というのは大きくて動かないものと小さくて酸素をエネルギーにして動き回るものの二種類だったそうです。やがて大きな細胞の中に小さな細胞が入り込んでエンジンの働きをすることで、今の細胞になったようです。それがミトコンドリアだとか。

「荒魂」と「和魂」の関係性も細胞の成り立ちも、この世界の静と動の二面性を感じさせます。

閑話休題。

↓ この小径は本当に人がいません。



↓ 道の突き当たりにひっそりと 「荒魂」を祀る一之御前神社(いちのみさきじんじゃ)





ここではいくつかお願いをします。

↓ 本宮の裏にも……裏参りもしておきます。



↓ こんな洞穴がありました。どういう場所なんでしょうか。



↓ 道の途中は本当にいい雰囲気です。



清水社(しみずしゃ)



清水社は道の後半にあります。脇には湧き水があり、平景清がこの水で目を治したという伝説があります。また、湧き水の真ん中にある石は楊貴妃の石塔とも言われており、三度柄杓で水をかけて祈ると願いが叶うそうです。また、この水で肌を洗うと綺麗になるそうですよ。私と妻は水をかけることに夢中になって願い事するのを忘れていました。皆さんも気を付けてください。

↓ 道の最後は土用殿。昭和26年まではここに草薙神剣があったそうです。



この道は神楽殿の脇に出ます。最初に入ってきたところです。中を覗くと巫女さんが典雅な舞を見せていました。

本当はもう少し見て回りたかったのですが、新幹線の時間もあり、今日はここでおしまいです。中途半端な報告でごめんなさい。

お土産は名鉄駅前できよめ餅を買いました。栗入り、きなこ入りも美味しそうでしたよ。




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京都番外編 島原遊廓  [朱印帳]

かねてから行きたかった京都の島原遊廓跡に行ってきました。
まずは駅から徒歩で西本願寺に向かいます。島原遊廓跡は西本願寺の裏手にあります。

↓ 西本願寺 駅から徒歩で約15分。



↓ 境内にある2本の大銀杏。





↓ 裏手の道を5分ほど進むと…。



↓ こんな案内があります。



道を渡ってさらに10分ほど行くと…。

↓ いきなり大門(おおもん)が現れます。ちなみに江戸の吉原でも大門は「おおもん」と京都風に呼びます。
吉原が島原遊廓を手本に造られたからだそうです。


 


↓ 廓の中から見た大門。



↓ 瓦に「三つ巴」の紋が見えます。巴は水を表すそうです。火除けのための紋です。



大門という名に反して、思ったより小さな門でした。民家の間に挟まるようにあります。江戸吉原の大門はS字に曲がった五十間道の先にあって、日本堤の土手から門が見えないようになっていました。この門も直前で道が曲がっているので、突然門が出現したように感じます。吉原の場合はやんごとなき方から不浄な大門が見えないようにそうなっているようですが、むしろ遊客のわくわく感をかきたてるためだったのかもしれませんね。

↓ 輪違屋。





大門のすぐ先を右折したところにあります。

輪違屋は元禄時代から営業していた置屋です。今の建物は安政年間に建てられたらそうです。現在も営業しているので、公開はしていません。

大門の前の道を進むと、こんな辻に行き当たります。正面が西門。左手が角屋(すみや)です。



角屋は揚屋(あげや)といって、置屋から遊女や芸者などを呼んで遊興をする店でした。吉原ではこの揚屋は早くに廃れてしまいました。島原遊廓の揚屋の中で最も有名なのがこの角屋です。久坂玄瑞など長州藩士たちが密議に使ったそうです。



↓ 角屋外観。



角屋は公開されています。
入館料は1000円。中の自販機で購入します。



ただし、自由に見学できるのは1階部分のみ。与謝蕪村も常連だったようで、絵や直筆の俳諧が展示されています。私の好きな宝井其角の自筆俳諧もありました。

↓ 間取りです。800坪あるようです。



1階については、写真撮影も自由です。以下は1階の様子。

↓ 帳場周辺。奥に箱階段が見えます。







↓ 台所。広い台所があるのも揚屋の条件だったようです。



↓ 刀掛け。刀は帳場に預け、ここに掛けられます。



↓ 中庭。



↓ 松の間という大座敷に面した庭です。壁のない珍しい茶室が見えます。



↓ 臥龍松(がりょうのまつ)の切り株の向こうにも茶室があります。



松の間では30分おきに説明を聞くことができます。

以下、説明より。

この庭には臥龍松(がりょうのまつ)と呼ばれる有名な松があって、多くの絵や詩の題材になりました。また庭には3つの茶室があり、中の1つは壁のないオープンカフェのような珍しい造りです。朝から夜まで様々な遊びができるように造られたのが本当の揚屋造りです。あの頼山陽も母親を接待して遊びました。

庭には今は水のなくなった泉もあります。この辺りが湿地帯だった時の名残です。江戸末期になると、祇園や先斗町など鴨川沿いの遊興場が栄えて、湿地帯の上に地の利も悪い島原遊廓は衰退しました。ところが、その衰退に目を付けたのが長州藩士たちでした。密議をするには、うってつけの場所だったようです。そして、そこに敵対する新選組がやってきます。壬生の屯所が近くだったこともありますが、祇園などの一流の遊興場では、横暴狼藉をはたらく新選組は相手にされなかったからです。もちろん、長州藩士の探索という大義名分もありました。

説明によると、新選組の局長芹沢鴨が最後に酒宴をしたのも、この角屋だったようです。酒に酔った芹沢鴨は八木邸に運ばれ、その夜新選組隊士らによって暗殺されました。

800円追加して少し待てば、2階も案内してくれるというので、その間に西門跡を見に行きました。角屋から徒歩で3分ほどのところにあります。

↓ 西門跡。





↓ 住吉社。





↓ 幸(さいわい)天満宮。



以上はすべて西門跡周辺にあります。

大門だけでなく、西門もあったというのが江戸の吉原と違う点です。

時間になったので、角屋に戻り、案内役の女性に連れられて2階を見学しました。壁だと思っていたところに急に階段が現れて見学者を驚かします。粋な演出です。

2階の部屋はすべてにテーマがあって、それぞれ見事な意匠がほどこされていました。一階は贅沢ではあるけれど、どこか質素な造りなのに比べて、2階はまるで会員限定の隠し部屋のような豪華さです。ちょっと見てはいけないものを見た感じといいましょうか。これこそ町人文化の華なのだと感じました。こういうものを目の当たりにすると、当時の職人は寺社の表向きの仕事は適当にやって、ここぞという場所には意地をみせたのではないかとさえ思います。

「京の女はお腹が黒い」という話を聞いたことがあります。「そうどすなあ」という曖昧な表現の奥に、全く異なる思いを抱いていて心の内が読めないということです。人だけでなく、京都という町にも実はまだまだ私たちの知らないディープな京都があるのではないでしょうか。

2階の見学の中で、特に驚いたのは最後に見た青貝と螺鈿の部屋でした。部屋の壁と天井一面が青貝と螺鈿で埋め尽くされた部屋です。残念ながら青貝ははがれてしまっていましたが、螺鈿の部分だけでも往時の豪華さが想像できます。端の方に職人の名が螺鈿で記されているのも、職人の矜持の表れでしょうか。

痛ましいことに、この部屋の柱には新選組隊士がつけた深い刀傷が残されていました。床の間の2本の柱に左右対称に2つずつ刻まれています。

1階の刀傷は玄関近くの外の柱に付けられていましたけど、当時の遊廓では刀を帳場に預けるのがルールでしたから、2階の座敷に刀傷があるのはおかしな話です。説明では、新選組は御用改めと称して刀を部屋に持ち込んだのだとありました。もちろん、事実はそうなのでしょうが、酔って適当に付けたにしては左右対称に綺麗に刻まれています。主人も納得づくのやらせだったら面白いなと感じてしまいました。。宣伝効果はありますよね。「これですか、困ったことですわ。酔った新選組の方らがつけはって…」などと客に言えば、物見高い客が酒の肴にと見物にやってきます。いや、これは全く根拠のない私の当て推量に過ぎませんが、角屋の主のしたたかさが感じられて面白い妄想だと思います。

京都には何度も来てますけど、京言葉に接することって、少ないですよね。説明の女性の京言葉を聞くだけでも、1800円は安いです。

最後に「島原」という地名なんですが、なんでも、遊廓がこの場所に移転する際の、あまりの混乱の様子を「まるで島原の乱みたいなやな」と形容したのが由来とか。あまり色っぽくない地名の付け方にがっかりです。

今回は残念ながら御朱印はありません。でも、吉原や江戸時代の文化に興味のある方はぜひ足を運んでみてください。特に角屋の2階は一見の価値ありです。



↓ 輪違屋を舞台とした幕末の物語です。新撰組副長土方ファンの人もぜひ。


輪違屋糸里 上 (文春文庫)

輪違屋糸里 上 (文春文庫)

  • 作者: 浅田 次郎
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2007/03/01
  • メディア: 文庫



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御朱印帳散歩15 伏見稲荷社・東福寺 [朱印帳]

秋の京都に京都に行ってきました。残念ながら紅葉の盛りには1週間ほど遅かったようです(11月最後の週)

伏見稲荷社











東福寺



















↓ 我が家のイチオシ。浅田次郎作品。登場人物たちの胸のすく啖呵が見事!


闇の花道―天切り松 闇がたり〈第1巻〉 (集英社文庫)

闇の花道―天切り松 闇がたり〈第1巻〉 (集英社文庫)

  • 作者: 浅田 次郎
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2002/06/01
  • メディア: 文庫



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御朱印帳散歩14 浜松の龍潭寺 [朱印帳]

次の大河ドラマの舞台になる浜松の龍潭寺(りょうたんじ)に行ってきました。

浜松駅前からバスで井伊谷宮前(いいのやぐうまえ)バス停まで 約50分かかります。ちなみに遠州鉄道バスはSuica、PASMOが使えません。ご注意を。

バス停を降りて道路を渡ると、すぐに井伊谷宮の入口です。井伊谷宮にも寄りたかったのですが、新幹線の時刻があるので、泣く泣く前を通り過ぎます。山門はさらに200㍍先の駐車場上にあります。しかし、そのずいぶん手前の右手脇道に「 龍潭寺参道 」という道標が見えたので坂を上がってみました。幸運にも境内への近道でした。



靴を脱いで御本尊に参拝。
小堀遠州作のお庭を拝見します。
禅宗(曹洞宗)のお庭なので、いわゆる枯山水です。川を模した砂利の部分は本堂に近い部分だけで、その後ろにこんもりした小山があって石がいくつも配されています。その背後に木々が立ち並んでいるので、借景はありません。紅葉はまだまだですけど、一見の価値があるお庭でした。















また、ここは来年の大河ドラマの主人公井伊直虎(女性の城主だそうです)の菩提寺です。後に井伊家は彦根に移りますが、元々の父祖の地はこの井伊谷だそうです。この日も多くの参拝客で賑わっていました。

帰りは山門の方から駐車場に降りてみました。駐車場には売店があり、店の入口にある無料電話でタクシーを呼ぶことができます。バスは1時間に1本程度しかないので、新幹線の時刻に間に合わせるために仕方なくタクシーを呼びました。浜松駅まで5000円以上かかりました。痛い出費です。

御朱印です。