お墓参り(東金八鶴湖) [その他]
お彼岸のお墓参りに行きました。
お墓参りの帰りには、よく蕎麦を食べます。今年もいつもの店に寄りました。
上は大きなエビの天ぷらが2本ついた「海老天せいろ」。
下は妻が頼んだ「天ぷらそば」の器です。可愛い器でしょ。
冷たいお蕎麦の「天せいろ」と同じように、海老、穴子、椎茸、さつまいも、じゃがいも、茄子の天ぷらがついています。
せいろは200円で蕎麦のおかわりができます(ただし一度だけ)。
昼はお墓参りのお客さんで混雑したようですが、わたしたちが行った夕方は空いていました。静かなお座敷で庭を眺めながらお蕎麦を楽しむことができました。
人間ドック [その他]
毎年同じクリニックで人間ドックを受けています。
今年の集合時刻は8時。
まずは受付をして検体を出します。
ロッカーで着替えたら看護師さんの問診。内科医の検診。
採血、心電図、聴覚、視力、眼圧、身体測定、肺活量、超音波と進みます。
いつも超音波検査で脂肪肝を指摘されるのですが、体重が減ったせいか去年よりは改善されていると言われました。
胸部エックス線を撮影が済むと、最後は胃の内視鏡。
今年いつもと違ったのは検温くらいです。コロナウィルスの影響で空いているのかと思いましたが、例年通り混んでいました。
胃の内視鏡検査も毎年お願いしています。
ずいぶん前から「食道裂孔ヘルニア」という食道内に胃の一部が突き出る病気を指摘されているんですが、昨年までは自覚症状も全くありませんでした。ところが、今年は何回か胃液が逆流するようなことが何度かあり、実際モニターに映るヘルニアもかなり大きくなっていました。
それでも、まだ薬を飲むほどではないようです。
午前中にすべての検査を受け、昼食後検査結果を聞くことも可能なんですが、いつも結果は郵送にしてもらっています。
昼食は和食または中華です。わたしはいつも中華。メニューは薬膳の4種類から選びます。わたしはいつもこれ↓
五目焼きそばと中華まん。
24階のレストランからは幕張の街と海が一望できます。
昼食の他にケーキと飲み物のサービス券がもらえます。2階のカフェでひと休みしてから帰りました。
詩 密室の道化師 [詩]
密室の道化師 高平 九
戦争は密室で起こっているから
外にいる僕らはみているしかない
いつの間にか僕らの場所が密室になるまで
僕らは戦争が起こったことにも気づかない
蝶々が指先のようになにかをつかもうともがくけれど
つかまるのはカラスの糞にまみれた案山子くらいだ
ああ、案山子ほど口がかたい奴はいない
アリは皆口をあけてつぶやくけど
何をつぶやいているかは互いに知らない
たとえそれが真実の甘い蜜であっても
誰かが老人たちをころす
今日もまた子供を優しい日常から拐ってゆく
道化師はひとり空を見上げ
奥歯をがりりと噛み締めた
『信長公記』を読む [その他]
『地図と読む 現代語訳 信長公記』
(太田牛一 著/中川太古 訳)
を読みました。
2019年KADOKAWA刊。
『信長公記』は『しんちょうこうき』と読みます。織田信長の家臣だった著者が見聞きしたことを詳細に綴ったものです。慶長の頃(1600年頃)に書かれたものだそうです。
記事は天文十一年(1542年)8月上旬の小豆坂の合戦から始まっています。三河に攻め寄せてきた駿河の今川義元の軍勢を織田信秀(信長の父)が迎え撃った戦です。次の記事は天文十五年の吉法師(信長)の元服と続きます。
最後の記事は天正十年(1582年)6月の本能寺の変を中心に、その後の安土城に残された人々の反応、徳川家康の去就で終わっています。
今回初めて読んでみて、合戦の有様が実に克明に書かれていることに驚きました。兵の動きや戦の推移だけではありません。誰が手柄を立て、誰が戦死し、敵将の誰の首をとったか。さらに手柄をあげた諸将に信長が与えた恩賞まで、まるで作者自身が公的な記録係だったのではないかと思うほど細かく書かれています。
他にも、買い上げた名物(茶器や絵画など)や諸将から献上された品々(馬や鷹が多い)なども詳細に書かれています。それにしても、馬や鷹の種類まで記されているのには驚きました。脚注には芦毛、鹿毛(かげ)がどんな馬なのかも書かれていて、全く知識がなくても読めるように工夫されています。
信長は乗馬の訓練を欠かさなかったようです。甲斐を通った僧侶が武田信玄にそのことを伝えています。また、戦のたびに信長自身が馬で状況を見てまわり采配をふるっていた様子も記載されています。
著者は青年期の信長に対してかなり辛辣に批判をしています。「おおうつけ(大馬鹿者)」と言われていたことや守役の平手正秀が実直でない信長に腹を立てて切腹したとはっきり書いています。ところが、美濃な斎藤道三と同盟を結んだあたりから、著者の評価も世間の評判も変わっていきます。後半では信長がどんな非情なことをしても(比叡山焼き討ちなど)、信長を裏切ったから因果応報だなどと弁護し、逆にその威光を称えています。
信長という人は自分を慕って来る人にはとても手厚いのですが、自分を一度でも裏切ったり、恨みがましいことを言った相手のことは、いつまでも覚えていて復讐する人だと感じました。許すときと許さないときの基準が分かりにくいので、周囲の人は対応が難しかったかもしれませんが、おそらく信長の中では「あの時、あんなに大口を叩いたくせ」とか「何度も忠告したのに、またか」という理由があったと思います。今でもこういう人いますよね。けして忘れない人(笑)
比叡山が焼き討ちに遭ったのも、一度目の警告に従わなかったからなんですね。それにしても、焼き殺すことはないと思うけど。
今回読んでみて特に面白かったのは、合戦とは直接関係のない市井の出来事や人物の記事でした。京都四条糸屋の娘が七十になる母を殺した事件。「山中の猿」と呼ばれる美濃の乞食に信長が情けをかける話、売僧(まいす)と呼ばれる仏教を使って金儲けをする無辺を成敗する話などが興味深い記事がいくつもあります。
相撲好きな信長が催した試合の記事もあります。多くの関取の名が記録されていて、活躍した力士は信長の家臣に取り立てられました。
馬揃えや観能、茶の湯、蹴鞠などの記事もあります。それぞれ参加者の名前や演目などまで細かく記載されています。
相撲とともに信長が好んだのは鷹狩りのようです。各地から珍しい鷹が献上され、それらの鷹を使い寸暇を惜しんで鷹狩りをしています。庶民に鷹狩りの獲物である鶴や雁を賜ったという記事もありますけど、もらった鶴はどうするんでしょう。食べるの?
安土城の様子なども克明に記載されています。七階建ての各階の座敷の装飾まで書き込まれていて、その絢爛豪華な有り様をイメージ出来ます。
哀れだったのは荒木村重と処刑された一族郎党の記事です。村重と妻たしとの和歌のやり取りなどもあり、なんともつらい記事でした。一度は自分に従っていた村重の謀反の噂を耳にしたとき、信長は丁重な説得を試みています。おそらく信長は村重を気に入っていたんだしょうね。ですが、結局裏切られた。こういうときの信長は残酷です。
読んでいくうちに、だんだんと天正十年が近づいてきてドキドキしました。しかし、結局なぜ明智光秀が謀反に及んだかは書かれていません。著者は全体的に自分の個人的な感想や推量を抑えて、客観的な事実に重きをおいています。それにしても、主人である信長に対して謀反を起こした光秀の動機について、ほとんど何も触れていないのはなぜか?
これは『信長公記』を読んだ人が必ず抱く疑問ではないでしょうか。
とにかく、予想以上に面白い内容でした。織田信長や戦国時代に興味のある方はぜひ読んでみてください。現代語訳といってもただの直訳ではなく、分かりやすいように工夫が凝らされています。また地図があることで兵の動きや戦の経緯がよく分かります。今回の版では主要登場人物の索引もついて一層便利です。
千葉市空襲の証言集を読む [その他]
千葉市空襲の証言集はこれまで以下の2冊発行されています。
「千葉市空襲の記録」(千葉市空襲を記録する会/1980.11.10/縦書き・ハードカバー) → 以下「記録」と略します。
→以下「証言」と略します。
サイパン、グアムなどのマリアナ諸島の島々を奪還したアメリカは、それらの島に飛行場を建設してB29戦略爆撃機による日本本土空襲を開始しました。当初は東京など5大都市が目標でしたが、次第に地方の中小都市にも矛先が向けられるようになりました。千葉市への空襲もその1つです。
「記録」には千葉市を目標とした3度の空襲について、それぞれ資料と証言がまとめられています。
1回目の空襲は1945年、終戦の年の5月8日。3機のB29が先導してP51戦闘機※65機が千葉の沿岸にある工場や飛行場を襲いました。P51は「マスタング」という通称で呼ばれ、大きな予備燃料タンクを搭載して硫黄島からも補給なしで飛んでくることが出来ました。
※「艦載機」(空母から発進する戦闘機)つまりF6Fヘルキャットなどであるという説もあります。
2回目は6月10日。日立航空機工場および蘇我の町、それに県立高等女学校、女子師範学校などが爆弾による空襲を受けました。これらの学校は日立工場から依頼され、校内でゼロ戦の垂直尾翼など作っていました。
3回目は7月6日から7日朝にかけての主に焼夷弾による空襲。まずは千葉市街地の周辺を爆弾と焼夷弾で襲い、逃げ場をなくしてから、焼夷弾で町を焼き、機銃掃射で市民を殺傷しました。明らかに市民を狙った空襲でした。
「記録」はこれら3回の千葉空襲について、克明な資料と証言(聞き書きと手記)を掲載しています。
一方「証言」は上記の3度の千葉空襲について56名の証言を載せています。「記録」と重複しているものもあります。千葉空襲以外の戦争体験についての証言も掲載されています。
「記録」が空襲の体験が中心であるのに対して、「証言」の方は当時の生活の様子やそれぞれの証言者の戦争(平和)への思いが加えられています。
皆さん、本当は思い出したくない恐ろしく酷い出来事を、戦後35年を経て証言してくださっています。今、伝えておかなければ、また同じことが繰り返されるのではないか。そんな証言者の思いをなんとか次代に伝えたいものです。
髭を当たる! [その他]
九十九里小旅行 [その他]
幼稚園でのピエロショーのついでに、国民宿舎サンライズ九十九里に泊まってみました。
その名の通り朝日を見ることができるホテルです。チェックインの際に日の出の時刻を教えてくれます。その朝は6時15。客室からはもちろん、レストラン、客室階にある展望室、それに大浴場からも朝日を望めます。湯船に浸かりながら眺める日の出は最高でした。
ロビーには時節柄、たくさんの雛人形が飾ってありました。壮観です。
宿舎の裏庭を抜けて、有料道路の下のトンネルを抜けると砂浜に出られます。
トンネルの前で「智恵子抄詩碑」という案内板を見つけました。
詩人の高村光太郎の妻である智恵子は、昭和9年の5月から12月までの8ヶ月の間、近くの「田村別荘」で転地療養をしていました。光太郎は週に一度必ず見舞いに来たそうです。
『千鳥と遊ぶ智恵子』という詩が詩碑の裏側に光太郎のペン字そのままに彫られています。千鳥と戯れる無邪気な智恵子を、防風林のなかから見つめる光太郎。
人間商売さらりとやめて、
もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつでも立ち尽くす
詩碑は防風林に囲まれたなかにひっそりと隠れるようにありました。詩人の草野心平が建立したときは、詩碑のところから砂浜が一望できたそうです。ちょうど千鳥と遊ぶ智恵子を眺める光太郎の立ち位置です。現在では有料道路に阻まれて砂浜を見ることはできません。砂浜に散歩に来たカップルも近くに車を駐めて着替えているサーファーたちもこの詩碑の存在に気づいていないかもしれません。波の音だけが聞こえる、寂しく静かなところに詩碑は建っています。
私にとっては清水の三保の黒砂が馴染みですが、九十九里の海もいい。穏やかな優しい海です。海を見るとほっとします。空気が心にたまった澱(おり)を洗い流してくれます。
(寄り道 その1)
帰るさ「菅原伝統硝子Sghr」に寄りました。日本ペイントの道を隔てた反対側、自動車教習所の隣にあります。蕎麦屋の横の細い道を入ったところです。
ショップには手作りのガラス器がたくさんあります。妻は職場の同僚へのお餞別に、小さな可愛い花瓶を買いました。カフェも併設されています。予約すれば工場での体験も可能。
↓ 奥が工場。左手の建物がショップです。
(寄り道 その2)
Garden Cafe Doppietaでランチ。
東金の季美の森にあります。
重い扉を開けると、室内にはピアノや小さなステージがあり、天井も高くてまるでコンサートホールのよう。奥のガラス扉の向こうには広いテラスもあります。暖かくなったら、外でお茶するのもいいかも。
トイレはガラス扉を開けて、テラスを左へ行くとあります。扉の開け方にはみんな手こずっていました(笑)
野菜をいかに美味しく食べるかを追求した店という感じ。私はアヒージョをいただきました。海老や野菜を食べたあとで、残ったオイルを使ってパスタにしてくれます。これが実に美味。フォカッチャを少し残しておけば、最後に残ったオイルをつけて食べられたのにと後悔しました。お薦めです。パスタはポーチドエッグを落としたライスにも変更できます。