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御朱印帳散歩19 巣鴨 [朱印帳]

今日6月3日(日)の散歩は巣鴨です。

池袋の芸術劇場に『パレード』というミュージカルを観に行った帰りだったので、16:00という遅いスタートになりました。余談ですが、私たち夫婦は堀内敬子さんの四季時代からのファンです。『パレード』の堀内さん良かったです。歌もたくさんあって本領発揮でした。プログラムの対談でのボケもサイコーに笑いました。やっぱり好きだなあ。

閑話休題。



巣鴨地蔵通商店街

初めての巣鴨です。JR巣鴨駅から、この有名な商店街まで広い道路の歩道(実は旧中山道)を少し歩きます。アーケードになっていて、これなら雨の日も安心。今日は晴れてますけどね。



↑ 最近は中高年だけでなく、若者も増えたと聞いていましたけど、やはり主流は中高年ですね。若者向けの店はほとんどないし。赤い下着の店が何店舗もありました。

高岩寺(とげぬき地蔵尊)







御朱印



中年の女性たちが「御影」という小さな紙片を買っていました。100円だそうです。女性のおひとりが「妊娠したときに、これを母さんに飲まされたのよ」と話していらっしゃいました。お地蔵様の御影が、それを飲んだ人を災いから守ってくれるのだそうです。

「とげ」って「針」のことなんですね。「御影」を呑むことで、誤って呑んでしまった針を抜いた話が「とげぬき地蔵」の由来だと書かれていました。

商店街をしばらく進むと、猿田彦を祀った祠がありました。庚申塚跡だそうです。この場所に江戸時代は茶店があったとか。中山道を往来する旅人が、とげぬき地蔵尊をお参りしようと立ち寄ったのでしょうか。







その角を右折して真っ直ぐ進み、大通り(中山道)を渡ると、お寺(お墓)の多い地区に入ります。「お岩通り」というのは『四谷怪談』のモデルになった女性の墓(妙行寺)がこの先にあるからだそうです。四谷から移転してきたとか。

↓ お岩通り



この道をしばらく歩くと本妙寺が左に見えてきます。

本妙寺







剣豪 千葉周作のお墓(本妙寺内)



千葉の人間としては、千葉出身の北辰一刀流創始者千葉周作の墓に詣でないわけにはいきません。

遠山の金さんこと、遠山金四郎景元が建てた遠山家の墓(本妙寺内)



「この桜吹雪を見忘れたとは言わせねえぜ」の遠山の金さんは実在の人物なんですね。片岡千恵蔵の映画『いれずみ判官』も杉良太郎の『遠山の金さん』もよく観ました。大好きな時代劇のシリーズです。

明暦の大火の供養塔(本妙寺内)



明暦の大火は振袖火事とも言われる江戸時代を代表する大火災です。明暦3年(1957年)の1月8日(現在の3月2日)の午後に当時本郷にあったこの本妙寺から出火しました。この火が消えかかった頃に別の場所から火が出て、さらに翌日にもまた新たな場所で火事が起こりました。江戸のほとんどを焼き尽くし、死者は10万人を超えた大災害でした。その多くは火に追われ大川(隅田川)に飛び込んだ人々で、溺死、あるいは凍死しました。

この火事の死者を弔うために回向院(えこういん)が建立され、やがてそこで勧進相撲が行われるようになります。また、千住大橋しかなかった大川に新しく橋が架けられました。橋の両側には広小路と呼ばれる火除け地が作られ、避難場所として大名家の下屋敷が作られたりと、江戸の町に様々な変化がもたらされました。そうそう、人形町にあった吉原(元吉原)も全焼し、浅草寺裏(新吉原)に場所を移すことになったのもこの火事がきっかけです。

寺を出て同じ道を真っ直ぐ進むと左側に広い墓地があるところにやってきます。

染井霊園です。

染井霊園の敷地に沿って左におれると慈眼寺(じげんじ)という寺院が左手に現れます。

慈眼寺



ここは芥川龍之介が眠る寺です。

寺門を入って、左手が墓地です。墓地の門を過ぎると、こんな案内板がありました。



左右に墓石の並ぶ細い道を直進すると、まずは左手に谷崎家の墓があります。

谷崎潤一郎の遺骨が分骨されて納められているそうです。



表示に従って左に曲がると、芥川龍之介のお墓がありました。





さすがに墓にはお洒落な花が一輪手向けられ、煙草やワインなどの供物もありました。日々詣でる人がいるのでしょう。さすが文学界の大スターですね。

「ずいぶん大きな墓石だな」と思って眺めていると、横から妻が「愛用の座布団の大きさなんだって」と教えてくれました。上から見ると、まさに座布団です。お洒落ですね。



来月24日の河童忌にはこの狭い墓地に多くの人がお参りに来ることでしょう。でも、そんな龍之介の墓のまわりには、白いプレートが置かれた墓石が目立ちます。プレートには「このお墓の関係者の方は寺務所に寄ってください」と書かれています。兼好法師が『徒然草』に「去るもの日々に疎し」と記したように、故人を偲ぶ人がいなくなれば墓も忘れられて、その人が存在していたことさえ忘れ去られてしまうのですね。無常ですね。生きている間が花ってことですね。

慈眼寺の門をでると、目の前が染井霊園の入口です。坂を上がると案内板があり、さらに直進すると文人をはじめ著名人の墓所の位置を詳しく記した案内板がありました。

日が傾いて来ていたので、二葉亭四迷と高村光太郎・智恵子夫妻のお墓に絞って詣でることにしました。

ところが、巣鴨駅方面に向かう途中にあるはずの二葉亭四迷の墓石が見つかりません。案内板にあった場所を過ぎても何の表示もないのです。数十メートル坂を下ったところに、また詳しい案内板があったのでもう一度確認します。妻に「ここで待ってて」と告げて戻ってみますが、やはりありません。何度か行ったり来たりした末に「ここみたい」と妻が指さしたところにあったのが↓



表示がなぜか倒されていました。

二葉亭四迷のお墓



当たり前ですけど、本名長谷川辰之助が真ん中に大きく彫られていて、その右脇に控えめに二葉亭四迷とあります。

言文一致の小説『浮雲』で知られる四迷のペンネームは、作家になりたいと打ち明けた時に父親に言われた「くたばってしめえ」に由来するとか。これもまたお洒落ですね。

と書きましたが、これは俗説で本当は処女作『浮雲』を卑下する気持ちや、坪内逍遥の世話でやっと世に出ることができた自分を罵って吐いた言葉が「くたばってしめえ」だったのだそうです。
文学史に名が残る作家でも色々な思いがあったんですね。

↑ この表示の奥に四迷の墓があります。見つからない自分を「くたばってしめえ」と罵らずに済むように。 念のため。 さて、今日の散歩の最後は高村光太郎・智恵子夫妻、そして光太郎の父親光雲が眠る高村家のお墓です。四迷の墓よりさらに巣鴨駅に近い、染井霊園の入口付近にあります。 ↓ 墓石の脇の石版に彫られた歌。 私は『智恵子抄』を愛読して、『レモン哀歌』や『樹下の二人』を暗誦するような中学生でした。それに絵を描いていたこともあって、光太郎の愛した彫刻家ロダンにも憧れていました。60歳になって初めて詣でました。 高村光雲は、万国博覧会に出品した『老猿』、皇居前の『楠木正成像』、そして上野公園の『西郷隆盛像』などの名作を残した彫刻家です。でも、長男の光太郎とは不仲だったようです。偉大な父を持つと大変ですね。 光太郎と智恵子のことは『智恵子抄』で知られています。特に精神を病んだ妻への思いを綴った詩は、今読んでも胸を打ちます。 智恵子は自身も画家を志していました。でも、光太郎との結婚によって、貧困の中、芸術家としての夫を支えなければなりませんでした。それが精神を病んだ理由とも言われています。 『智恵子抄』はドラマ化されて、私も子供の頃見ていました。「♪東京の空灰色の空、ほんとの空が見たいという♪」という主題歌を今も覚えています。この歌のベースになった『あどけない話』という詩だけは今も完全に暗誦できます。 戦時中、光太郎は戦争を賛美する詩を書きました。そのために、戦後は自身を恥じて山に籠もって晩年を過ごしたそうです。 このお墓のすぐ先に出口があります。すぐ前の道を進むと、巣鴨駅前の大通り(旧中山道)に出ます。すぐ先(左)が駅です。 昔からファンだった芥川龍之介や高村光太郎のお墓参りが出来ました。とてもいい散歩でした。それにしても、次来るときはちゃんと線香くらい持って来よう。 読んでいただき、ありがとうございました。あなたも御朱印帳を持って散歩に行きましょう。