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「うたは無駄の中にある」 [その他]

BEGIN「うたの日コンサート2020in石垣島〜with JALホノルルマラソン〜」という配信を観ました。昨年12月に配信された無観客のうたの日コンサートの再配信です。

石垣島の夕暮れを背景にしたコンサートは実に素晴らしいものでした。

もともと私はBEGINのファンなので、すべての楽曲が染みました。

でも、最も感動したのはコンサートの後半でボーカルの比嘉栄昇さんが言った、
うたは無駄の中にある」という言葉でした。

コロナ感染によって会社帰りに一杯飲むことがやり玉に上げられています。しかし、栄昇さんは言いいます。
「会社から自宅にどこにも寄らずに帰れる人は幸せな人。どこかに寄って一杯引っかけずには帰れない人がたくさんいる。それは無駄に見えるかもしれない。でも、そこにこそ『うた』がある」

演劇やミュージカルは無駄なのでしょうか?

ミュージシャンのライブは無駄なのでしょうか?

ダンスを踊ること、芸を見せることは無駄なのでしょうか?

合唱をすること、カラオケに行くことは無駄なのでしょうか?

友人や仲間と酒を飲んで騒ぐことは本当に必要のないことなのでしょうか?

いや、それらの中にこそ人間が生きるために必要な「うた」があるのです。

うたの日」コンサートはさだまさしさんが故郷の長崎で行っているコンサートに出演したことがきっかけで、自分たちも地元のために何かできないかと始めたのだそうです。

先の大戦で国内で唯一戦場となった沖縄。その沖縄戦が終結した日は6月23日でした。BEGINはその翌日の24日を「うたの日」と決めて、20年のあいだ毎年その日の近くにコンサートを開いてきました。

もともと琉球の人々は踊ることも歌うことも大好きだったといいます。酒を愛し人を愛し、自然の恵みに感謝して平和に暮らしていました。

ところが、軍事的な重要拠点として日本軍の統制が厳しくなると、内地の人間には理解できないウチナーグチ(方言)を話すことも禁じられ、学校では方言を使うと「方言札」を掛けられ罰せられました。方言を話していたためにスパイと疑われて処刑された人もいたそうです。

米軍が上陸して戦闘が始まると、歌うことや踊ることはもちろん、大きな声で笑ったり泣いたりすることさえも許されなくなりました。人々はガマ(洞窟)の中でじっと息を潜めていなければなりませんでした。

栄昇さんも話していましたが、乳飲み子がひもじくて泣くのを日本兵から「うるさい」と咎められ、母親が口を塞いで殺してしまったという悲劇もあったそうです。

1945年6月23日。沖縄戦の一応の終結によって、人々はようやくまた歌えるようになりました。そのことをお祝いしようというのが「うたの日」の趣旨だそうです。

「今の状況とよく似ている」と栄昇さんは言いました。

今、コロナによって「うた」は封印されています。誰もがマスクで顔を覆って、まるで歌うことも笑うことも禁じられているかのようです。

コロナ感染の脅威から解放されたとき、その日は私たちも思い切り歌い踊るでしょう。その日もまた「うたの日」になるのです。

うた」は無駄の中にあります。生きるということはただ息をして食べるだけではありません。「そんなこと無駄だ」と人が言うことの中にこそ、実は人間一人ひとりの生きる意味があるのではないでしょうか。

そうでなければ名曲も名画も生まれはしません。モーツァルトやビートルズ、西行や芭蕉、そして手塚治虫や宮崎駿も、みんな無駄と言われるものの中から生まれてきました。

配信は2月8日までだそうです。
3時間以上ありますから時間に余裕があるときに観てください。ちょこちょこCMも入りますけど、きっと後悔はしません。ぜひぜひ観てください。

https://www.youtube.com/watch?v=Ufhdj6CzbMc
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