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うーん書けない [小説]

小説が書けない。

昨年の8月までは好調だった。出来不出来はともかく3本の中長編と4本の短編を書いた。それが9月から全く書けない。なまじ賞など獲ったのが悪かったのか。受賞は「まだ書いていいよ」という何者かからのメッセージだと思った。少しでも多くの人に自分が作った人物と物語について知ってもらいたいと感じた。それなのに肝心の書く作業が止まった。

明日は二次選考の結果が出る。そろそろ短編の賞も発表になるはずだ。これまでは応募した賞の発表前他の賞に応募するようにしていた。「これが落ちても次がある」と思えるからだ。そろそろ書かないとそれが途切れてしまう。1月末締め切りの文学賞は多い。何とかつなげたいものだ。

小説を書きたい人は多い。人の人生に同じものは1つもない。ある程度の年齢に達すれば自分の波乱に富んだ人生を書いてみたいと思うのは至極当然なことだ。

だが、実際に小説の最初の一行を書き始める人はとても少ない。さらにその小説の最終行に「了」と書き込んだ経験のある人はわずかしかいないだろう。

作家の宮本輝が小説を書くコツについて「上手に思い出すこと」だと書いているのを何かで読んだことがある。

自分が経験したことの中にすべての答えはある。ただし、それをそのまま書こうとするとうまくいかない。それが挫折の大きな原因の一つだと思う。確かに経験したことなのに、それを文章として表現しようとする何かが違う。多くの人はそれを自分の文章力のせいだと思って諦めてしまうけれど、実は思い出し方にこそ挫折の要因はある。

例えば、かつて誰かが言った言葉が胸に深く刻まれていたとする。だが、脚本や小説の台詞のように語る人は少ない。その人もおそらくは訥々とあれこれ回り道をして語ったはずである。また周囲の状況もけしてその内容にふさわしかったとは限らない。

そのときの感銘を真に描写しようとすれば、当然だが余計な言葉や状況は捨てて、逆に内容を際立たせるような演出を加える必要がある。真面目な人ほど事実をそのまま書こうと拘るけれど、事実に虚構を混ぜることではじめて真実を描くことができる。書きたいのは事実なのか真実なのか。もしも誰かに言われた言葉がいかに心に響いたかを書きたいなら、事実をそのまま書いたのではそのときの感銘、つまり真実を捉えることは難しい。

中学1年の美術の時間に、校舎の外に出てスケッチをやった。私は学校のフェンスの外にある赤い屋根の家が気に入ってそれを写していた。美術の先生が私の絵を覗き込んで「あの家が描きたいんだろう。フェンスとか木が邪魔だったら描かなくてもいいんだぞ」と言った。当たり前の助言なのかもしれない。しかし、その言葉は私を何かから解き放してくれた。美術部に入って抽象画を描くようになったのはそれがきっかけだった。

真実を描きたければ事実に拘る必要はない。この考え方は作者と作品を自由にする。

それにしてなぜ小説が書けないのだろう。

引きこもっているから時間はたっぷりある。なのに書けない。やはりコロナのせいだと思うことにした。真実は人と人とのつながり中にある。人とつながれなければ真実を描くことはできないのかもしれない。さあ、書こう。

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