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小説 『ラブドラム~恋する太鼓』 [短編]

『ラブドラム~恋する太鼓』 高平 九

はしがき
 昨年あるショートショートの賞に応募した作品です。『綾の鼓』という能の作品を下書きにしています。よろしければ読んでやってください。 

あらすじ
 太鼓の名手に厳しく仕込まれた健矢は、一生恋をしないことを師匠に誓わされる。そして、師匠は「綾の太鼓」という皮の代わりに布を張った太鼓を健矢に遺した。それは師匠が恋を忘れるために叩いたという音の鳴らない太鼓だった。

本文
 健矢はその太鼓に目を凝らしました。
 稽古場の真ん中にその太鼓はおかれています。健矢が退職金を注ぎ込んで建てた広い稽古場には、さっきまでたくさんの大人や子供、つまり健矢の弟子たちが太鼓を並べて練習をした余韻が濃く残っていました。健矢はその汗の匂いと熱気が好きでした。太鼓は全身と全心で鳴らす楽器です。この一瞬のすべてを注いで打ち込まないと本当の音を返してくれません。健矢がそんな太鼓と出遭って60年が経ちました。
 健矢がはじめて太鼓の音を聞いたのは町のお祭りでした。ねじり鉢巻きに法被姿の大人や子供たちが並んで太鼓を打ち鳴らす姿に圧倒されました。でも、彼の心を本当に捉えたのは、演目の最後に老いた男が一打一打ゆっくりと鳴らした太鼓の音でした。それはまるで神の鼓動のようでした。幼い健矢に「お前はどうしてこの世界にいるのか、お前はここで何のためには生きるのか」と問いただすような音でした。一打ごとに眩みそうになりながら、健矢は歯をくいしばって耐えました。生まれて初めて何かと対決したような気分でした。そして、その時間は永遠に続くように思われました。
 翌日の夜には親に頼んで稽古場に連れていってもらいました。老人は入門を願った健矢を一瞥して「覚悟があるか」と問いました。ごく普通の習い事だと思っていた親は戸惑っていました。しかし、健矢は即座に「はい」と老人の目を見て言うことができました。老人に太鼓の教えを乞うということは、それだけの重みのあることだと、入門を決心した昨日の夜からずっと心の中で設けていたからできたことでした。
 師匠は健矢を他の弟子たちと一緒に稽古させませんでした。健矢は稽古場の隅に座って他の弟子たちの稽古をただ見ていました。そして、皆が帰った後で師匠から直々に手ほどきを受けるのです。そういうときの師匠には、他の弟子たちに見せるような好々爺と全くの別人でした。あの祭の夜のように一打一打を打って見せ、健矢にも同じことを要求します。あの夜に感じた神の恐ろしい鼓動に、健矢はひとりの孤独な少年として立ち向かうしかありません。彼の怖れや怠惰を戒めるように師匠は健矢を撥(ばち)で打ち据えました。その打擲に怯えながら健矢は命がけで太鼓を打ち続けました。もちろん、日々身体に刻みこまれる尊いアザを親に見とがめられないように気をつけながらです。
 師匠が亡くなったのは健矢がちょうど二十歳になった年でした。入門してから10年が経っていました。その間、師匠は一度たりとも彼を舞台に立たせませんでした。健矢は他の弟子たちが演奏するのをそばで見ているだけでした。彼はそれまで他の弟子たちと一緒に稽古をしたことがありません。ですから、彼らは健矢がどうしていつも稽古を見るだけなのか知りませんでした。師匠と2人だけの稽古のことは誰にも言いませんでした。口止めされた訳ではありません。ただ神聖なものが汚れる気がしたのです。
 亡くなる少し前に師匠は健矢を自室に呼びました。そんなことは10年間一度もなかったので、健矢は緊張して座っていました。
「お前は恋をしたことがあるか」師匠が言いました。
「いいえ」と答えると師匠は少し笑いました。白い口ひげに今飲んだ珈琲の滴がついています。健矢は師匠が珈琲を好むことも知らなかったのです。
「ああ……まあ、そうだろうな。恋をすると太鼓の響きが変わる」
「なぜです」と健矢は尋ねました。その問いは「なぜ恋をしたのか聞くのか」とも「なぜ恋をすると太鼓の響きが変わるのか」とも解釈できる曖昧な問いでした。しかし、師匠は満足そうに頷き、また珈琲カップを口に運びました。
「恋ごときで私の音は変わったりしません」健矢は少しむきになって言いました。「ああ、そうだな。お前は10年よく辛抱した。今ではお前の一打に圧(お)されることもある。まあ、たまにだがな」
 ここ数ヶ月、師匠の一打にはそれまで健矢を圧倒した教えが感じられなくなっていました。だから、彼は師匠に見放されたのではないかと焦っていたのです。しかし、一度圧力から解放されてみると、師匠の撥が宇宙から振り下ろされて、地球の奥深くへと抜けてゆくのがはっきりと見えます。今の師匠の一打一打はけして強くはありません。が、その一打は乾坤を貫いて、深く深く魂の奥まで届いているのでした。
「健矢よ。覚悟はあるか」
 健矢は人生二度目のこの問いに、すぐには答えられませんでした。。
「お前はまだ初心者に過ぎん。ここから果てしない修行がはじまる。私もあと何年お前の修行につきあえるか分からん。それでもやるか」
「はい」
「よし。それなら一つだけ覚えておくがいい。他に何をやってもいいが、恋だけはするな。女と寝るのもいい。結婚するのもかまわない。しかし、恋はだめだ」
「私に人としての幸せを捨てろとおっしゃるのですね」
 師匠はまた笑いました。
「人としての幸せが、恋をすることならな」

 亡くなった師匠は古くからの弟子の一人ひとりに遺品をのこしました。健矢に遺したのは大きな木箱でした。箱の蓋には「恋をしたら開けてよい。それまではけして開けてはならぬ」と師匠の手で書かれています。
 古くからの弟子たちが相談をして、師匠の太鼓の会を続けることになりました。唯一の肉親である師匠の妹さんも稽古場として家を使うことを許してくれました。それからは健矢も弟子たちと一緒に稽古をすることにしました。今まで何のために稽古場にいるのか分からなかった男が、初めて太鼓を打つ音に弟子たちは聴きました。そしてその力量に驚愕しました。健矢もまた聴いていただけの太鼓の曲を何のためらいもなく演奏できる自分に驚きました。そして、弟子たちは一瞬にして健矢が師匠の秘蔵っ子であると悟り、敬意をもって接するようになったのです。
 50年が経ちました。健矢はその間、毎夜のひとり稽古を欠かしませんでした。一打一打をゆっくりと全身と全心を込めて打ち下ろしていると、健矢の一打に師匠が応えてくれます。師匠の力強い一打が健矢を圧倒します。そして、奥深い一打が健矢に震えるような感動を与えます。師匠は確かにそこに生きていました。やがて健矢は弟子たちの指導者になりました。師匠の妹さんが稽古場として使っていた家を譲ってくれたので、健矢は役所の退職金を使って老朽化した稽古場を建て直すことにしました。
稽古場のこけら落としに来てくれた師匠の妹さんが、帰るさ稽古場の隅にある例の木箱に目を留めました。
「これは?」
「師匠が私に遺してくれた箱です。師匠は私に恋をするなと命じながら、そこには『恋をしたら開けてよい』と書いてあるんです。あきらかな矛盾ですね」
 健矢の話を聞いているのかいないのか、箱の表面を愛おしむように撫でながら師匠の妹さんが言いました。
「懐かしいわあ。この中には『綾の太鼓』が入っているのよ。ご存知?」
「いいえ。一度も開けていませんから」
「あら、一度も?」妹さんが少し笑いました。笑うと師匠と似たところがあると健矢は思いました。
「兄さんは三度この箱を開けたかしら。17歳のときでしょ、35歳のとき、それから最後は39歳のとき。私、お相手の顔も覚えていてよ」
「三度ですか」
「17歳のときは師匠の妹さん、25歳のときは私の大学時代の親友、そして39歳のときは私の亡くなった主人の姪」
「はあ」
「あら、兄のイメージが悪くなったかしら」
「いえ。それで恋とこの箱の中にある『綾の太鼓』とはどういう関係なんですか?」
「それも教えられてないのね。相変わらずいじわるね、兄さんったら。あのね。昔、卑しい男が高貴な女性に恋をしてね。そのことを知った女性が『この綾の太鼓を鳴らすことができたら、恋を叶えてもいい』と言ったのだそうよ」
「恋は叶ったんですか?」
「叶うわけないじゃない。だってさ、この太鼓は絶対に鳴らないんだもの」
「えっ?」
「『綾の太鼓』でしょ。皮じゃなくて、布が張ってあるの。鳴るはずがないでしょ」
「それで」
「卑しい男はそれでも太鼓を叩き続けて、最後は池に身を投げて怨霊になったそうよ」
「じゃ、師匠はなぜこの太鼓を……?」
「恋を忘れるために叩いたんじゃないかしら。鳴らなかったら諦めるって覚悟をして。どっちも馬鹿ね。鳴るわけないのにね」

 70歳になった健矢がそのコンビニを訪れたのは5月の日差しの強い日でした。稽古場のすぐ近くにコンビニができて、弟子の女子高校生が休日にアルバイトをするので、ぜひ一度来てほしいというのです。
 コンビニに入ると、弟子が健矢を見つけて「先生、ありがとう」と口だけ動かしました。知り合いに声をかけてはいけないと躾けられているのかもしれません。健矢が昼飯用の総菜と飲み物を買ってレジに行くと、弟子は他のお客の相手をしていて、他の子が彼のレジを担当しました。胸に研修中という札をつけているので、やはり高校生のアルバイトなのでしょうか。
「太鼓の偉い先生なんですね」
 バーコードリーダーを使いながら、その子が健矢に声をかけました。意外に低くてやや重みのある声の持ち主の顔を、彼はあらためて見つめました。背丈は健矢とほぼ同じくらいの大柄な子です。身体つきはほっそりとしていて、長い首の上に小さな顔が素直にのっています。
「あたしも習おうかなあ」と彼女は言いました、笑みを浮かべた口元の右端に小さな黒子が一つ光っていました。

 恋をしたその夜、健矢がいつものように打ち下ろした撥は、それまで一度も味わったためしのない凡庸な音を出しました。師匠の一打には及びもありませんが、最近の健矢は自分の一打がかなりの高みから振り下ろされて、深いところまで達するのを感じていました。「命果てるまで一打でもいい、師匠のもっとも平凡な一打に並ぶくらいの音を感じたい」と健矢は日々必死に太鼓に立ち向かっていました。それが、今の一打はまるで布を叩いたようです。健矢は目を閉じて瞑想しました。動揺を抑えて自分の身体と心の芯の位置を確かめるためです。そして、自分の芯が宇宙を貫く軸に重なったとイメージできるのをひたすら待ちました。長い時間をかけて待ちました。やがて、健矢はゆっくり目を開き、もう一度渾身の一打を太鼓にたたき込みました。ところが、太鼓が放ったのはさっきと同じつまらない音です。健矢は焦りました。何度試みても結果は同じでした。
 理由は明白でした。恋のせいです。昼間コンビニでほんのわずか言葉をかわしただけの10代の少女に健矢は恋をしたのです。もちろん、その時は何も感じませんでした。しかし、家に帰ってひとり昼食をとっていると、名も知らぬ彼女の笑顔と声がよみがえって、彼の心の器を満たしあふれだしました。まるで壊れた蛇口のように自分の心にあふれて止まらない恋心を健矢は呆然して眺めているしかありません。そして、彼女の口元の黒子もまた記憶の中でどんどん光を増し、たちまち一本の光の矢と化して彼の心の的をうち抜いたのです。
 健矢は一晩中撥を振り続けました。掌が灼けるように熱くなり、腫れているのが分かりました。こんなことは今までないことでした。一日中、一晩中太鼓を叩き続けられるだけの身体と心を健矢は作ってきたはずなのです。すべての力を出し尽くした健矢は、撥を握ったままでいつの間にか稽古場の床に仰向けに倒れていました。結局一度も彼らしい音は戻って来ませんでした。翌日は初めて稽古を休みにしました。翌日もその翌日もです。弟子たちが心配そうに訪ねて来ますが「病気のため休む」とだけ言って追い返してしまいます。とうとう師匠の妹さんがやって来ました。
「あんたもしかして」と健矢の顔を見るなり師匠の妹さんが言いました。
「遅い初恋はね。命とりだよ。さっ、すぐに『綾の太鼓』を打つんだよ」
 師匠の妹さんは稽古場に入るなり、健矢に例の木箱を開けさせました。
「でも、本当にいいのかい」と師匠の妹さんは言いました。
「誰に恋しているかは知らないけど、恋に生きることだってできるんだよ」
 そう言って、師匠の妹さんは健矢の目を覗き込むようにしました。師匠と本当によく似ていると健矢は思いました。
「覚悟はできています」
 健矢は師匠に伝えるつもりで決然と言い放ちました。

 そして今、「綾の太鼓」は健矢の目の前にあります。
 太鼓の木はかなり傷んで、青色の漆もほとんど剥げていました。金輪にも錆が目立ちます。ただ、皮の代わりに張られた布だけは一点のシミもなく、光沢さえ放っていました。健矢は太鼓の周囲を歩きながら、細かな部分も見逃さないように観察しました。そして、ゆっくりと一打目を振り下ろしましたとさ。

                             おしまい

 読んでいただきありがとうございました。よろしければコメントをお願いします。

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