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面の中の人 [詩]

 面の中の人   高平 九

 夜、女面をひとつ造った。
 昼食のカレーをほおばっていると、ふいに面のイメージが頭の中に降り注いだ。急いで上司に早退を乞い、イメージをこぼさないようにそおっと自宅に運ぶ。部屋に入るなり上着を脱ぎ捨てワイシャツの袖をたくしあげて粘土に向かった。大きな固まりを広げ、まずはアウトラインを造る。次に小さな固まりをちぎって凹凸をつけ、竹べらと指で形を整える。焦らずにゆっくりと頭の中のイメージに近づけるのだ。一時間もかからずに型はできあがった。頭の中のイメージはいつの間にか消え、顔は粘土に乗り移っていた。
「ねえ、ちょっと唇が厚いんじゃない」手を洗って部屋に戻ると声がした。背筋を冷たい手で撫で上げられたような感じ。「誰だ」誰のはずもない。この狭い家には誰もいないのだ。今は。「あたしよ」粘土の面は微かに笑っていた。「唇、薄くしてよ」それは久しぶりで聞く種類の声だった。深い水底に語りかけるような遠い声ではなく、産毛を戦がせながら寄り添う近しい声。別れ際の妻や娘の声ではなく、まだこんなつまらない男に彼女たちが興味を抱いていた頃の声に似ていた。だからと言って粘土の顔が妻や娘に似ているわけではないが。とにかく、よかった。未練や後悔ではないらしい。
 竹べらで唇から粘土をそぎとり、指を使って仕上げた。くすぐったいのだろう。面が唇を震わせて笑うのでなかなか形が整わない。面は不平を言い、またやり直し。注文どおりの唇に仕上げるのにまた一時間ほどかかってしまった。「ひんやり冷たいのね」ちぎった半紙を紙の繊維を溶かす液体に漬け、一枚一枚粘土の表面に張りつけてゆく。何度も繰り返し張り重ねると乳白色の面が生じる。「きれいにはずしてよ」紙が乾いてから粘土を慎重に外し去る。仕上がった面を見ると、その瞳には光があふれ、まぶしいほどの活力がみなぎっていた。
「さあ、できあがったよ。君はいったい誰なんだい」「わからないのね・・・ほんとうに分からないのね」「ごめん」「ううん。いいの。それより、ね」彼女は目をとじ、唇を少しだけ開いた。唇を重ねると、心の淵から安らかな思いが湧き出し、そのまま女の奥へと吸われてゆくのを感じた。
 ……夜、面から抜け出したあたしは、くたびれたワイシャツを脱ぎ捨て、新しい生を求めて町に出た。素肌に夜がはじける。(終)

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